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エンバーミングの今と役割―海外事例・コロナ禍の研究から
エンバーミングの今と役割―海外事例・コロナ禍の研究から
コラム
2026年5月12日
2026年5月12日

エンバーミングの今と役割―海外事例・コロナ禍の研究から

日本におけるエンバーミングの浸透状況や背景を整理しつつ、海外で広がる「セレブラント」の取り組みを通して、葬儀がもつ意味を考えます。さらにコロナ禍に、著者である橋爪 謙一郎氏が代表取締役を務める株式会社ジーエスアイが参画したエンバーミングに関する研究やマニュアル作成の取り組みも紹介。「どのような状況でもご遺族が大切な時間を持てるようにしたい」という揺るぎない思いが、すべての活動の根底にあります。 はじめに 米国カリフォルニア州のエンバーマーライセンスを取得し、現地で業務に従事する中で、エンバーミングの価値を実感しました。その経験を胸に、2001年に日本に帰国。日本でもいずれエンバーミングが重要な選択肢となることを期待し、日本人エンバーマーの育成やエンバーミングに関するさまざまな啓蒙活動に取り組んできました。 昨今、大切な人や自分自身の葬儀を検討する際に、宗教やこれまでのしきたりにとらわれず、「自分らしさ」やそれぞれの「死生観」をはじめとした価値観を反映させたいと考える人たちが増えています。しかし、個々人の思いや理想がそのまま実現されることはなかなか難しいのが現実です。 今回は「エンバーミング」が日本でどのくらい浸透しているのか、そしてその背景にある要因についてお伝えします。さらに、葬儀が多様化する中で、海外で広がる「セレブラント」の取り組みを参考に、日本において何を軸に「葬儀」を考えればよいかを「グリーフ(悲嘆)」の視点から考察していきたいと思います。 エンバーミングの普及を阻むもの 2024年時点で、日本全国でどのくらいエンバーミングが行われているのか、あらためて調べてみました。一般社団法人日本遺体衛生保全協会(IFSA)のまとめによると、およそ82,000件1)。同じ年の総死亡者数と照らし合わせると、その割合は約5%にすぎません。残念ながらまだまだ浸透しているとはいえない状況が見えてきます。 浸透度合いが、現状に留まる要因はいくつか考えられますが、ここでは、その中でも特に影響を与えている2点について解説します。 (1)エンバーミング施設とエンバーマーの不足 2025年4月1日現在、全国32の都道府県に90の専門施設が開設され、エンバーミングを提供しています。しかし、これらの施設は都市部に集中しており、エンバーミングを依頼したくてもできない地域があるのが現状です(図1)。 図1 エンバーミング施設のある都道府県 ピンク色:施設のある都道府県日本遺体衛生保全協会:日本への導入経緯.https://www.embalming.jp/embalming/medic/(2026/5/8閲覧)より許諾を得て転載 また、2025年現在、IFSAの認定エンバーマーは約300人になりますが、実際に稼働している人数はこれより少なくなっています。そして、1人が1日に処置できるエンバーミングの件数は、最大で3~4件ほどです(労働時間を8時間として計算)。年間に提供できるエンバーミングの件数を増やすには、エンバーミング施設の数や、認定師資格をもつエンバーマーの人数を増やすしか方法がないといえます。 エンバーマーの数を増やすには、教育機関の拡充も必要ですが、現在、エンバーマーを育成する教育機関は1校しかありません。学校を卒業後、認定試験を受けて、毎年20人前後のエンバーマーが認定されますが、実際の需要に追い付いていない状況です。 (2)価値が伝わらない―業界内の認知の壁 日本にエンバーミングが導入され、1988年に埼玉県内の葬儀社で初めて提供されてから、すでに37年以上が経過しています。しかし、エンバーミングを自社の商品として取り扱っていない葬儀社のスタッフの中には、エンバーミングがご遺族にもたらす価値について、正確な知識を有している人が多いとはいえません。 例えば、「日本では土葬をするわけではないから、エンバーミングは必要ない」あるいは「火葬までの数日間であれば、ドライアイスや保冷庫できれいな状態を保てる」といった考えから、ご遺族にエンバーミングを勧めない葬儀社もあります。 実際に、いくつかの葬儀社に問い合わせをしたものの「エンバーミングは不要」と説得されたり、「当社では対応できない」と断られ、インターネットで探し回った末に弊社にたどり着いたというケースがありました。「エンバーミングをお願いできる会社にやっと出会えた」とホッとされるご家族がまだまだいらっしゃいます。 実は、今回この原稿の執筆依頼をお受けしたのは、正しい情報や知識を必要としている人たちにお届けしたいと考えたからです。ご家族と接する専門職の皆さんがこの記事を読むことで、終末期医療や在宅医療を受けている患者さんのお身体の状態や、ご家族の心身の状態を把握した上で、エンバーミングについて適切に情報提供できるようになるかもしれない。そうすれば、大切な人を喪った後の気持ちを整理し、感情との折り合いをつけていく上で、欠かせない支援になると思うのです。 大切なのは、「エンバーミングが必要かどうか」だけで判断するのではなく、故人のお身体の状態やご家族の心身の状態を踏まえ、医療従事者と葬祭事業者が連携して最適な対応を考えていくことです。死別を経験されたご家族が少しずつ元気を取り戻していけるよう、その過程を支える社会的なしくみが求められているのではないかと感じています。 世界で活躍する「セレブラント」 皆さんは「セレブラント」という職業をご存知でしょうか? セレブラント(Celebrant)とは、故人やその家族の意思、信念、価値観、文化的な背景などを反映させてプランニングされた「世界に一つの儀式」を執り行う人材のことです2)。1973年にオーストラリアで誕生しました。 それまで結婚の儀式は教会のみで挙げるものとされていましたが、移民の増加や性の多様性などの社会的な変化の影響もあり、キリスト教に属していない人々の要望を受けて、政府が結婚式の司祭認可制度を設立しました。これにより、結婚の儀式は教会以外の場所でも行うことが可能になり、選択肢の幅が大きく広がったのです。 やがてこのムーブメントは結婚式だけにとどまらず、葬儀の場にも広がりました。セレブラントが宗教色にとらわれず、故人の生き方やご家族の思いを中心にセレモニーを設計・司会する専門職だったからかもしれません。セレブラントは、宗教だけでは解決できないことを解決し、思いを整理する役割を果たしてきました。ご遺族のグリーフに対して細やかな配慮ができる場づくりが評価され、オーストラリアでは大切な人を亡くした時に、セレブラントに葬儀を依頼する人が増えています。 セレブラントによって執り行われる葬儀の割合について、いくつかの国の統計を参考までに共有します(表1)。 表1 国別セレブラントによって執り行われる葬儀の割合3)-7) ニュージーランド  56%オーストラリア  60~70%アメリカ合衆国52%イギリス40% 日本における葬儀の現状とこれから 日本では葬儀が何のために執り行われるのかという目的を考えることなく、葬儀にかかるコスト面に焦点を当て、簡素化を選択する動きも増えてきたように思います。 確かに、終末期までそばに寄り添えたからこそ「葬儀は質素で構わない」と考える人もいるでしょう。しかし、葬儀の際に故人の「生き方」や「価値観」、「家族との思い出」を反映させた時間をつくり、心の中にしっかりと思い出を残せるような機会をつくることは、グリーフサポートの観点からも必要不可欠だと考えます。諸外国で広がる「セレブラント」の活躍を見ていると、日本においても今その必要性は増しているのではないかと強く感じます。 COVID-19禍における研究への取り組み 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がパンデミックになった際、感染を広げないために葬儀にもガイドラインが設けられました。今振り返ってみると、そこまでしなくてもよかったのではないかと思えるほどの過度な感染対策の結果、顔を見ることもできないまま火葬となり、遺骨を受け取ることしかできなかったご遺族も少なくなかったはずです。 デルタ株が蔓延していた時期、感染対策を徹底しつつご家族が希望するお別れの場をつくるため、当社は千葉大学法医学教室や東京大学法医学教室とともにエンバーミング処置に関する研究に参加しました。検討した内容は(1)感染対策、(2)薬品の濃度、(3)処置の方法など、多岐にわたります。 さらに、この研究に先駆けて、日本医師会総合政策研究機構対新型コロナウイルス特別医療支援タスクフォース「新型コロナウイルス感染症 ご遺体の搬送・葬儀・火葬の実施マニュアル支援プロジェクト」に当初より参画し、海外での対策事例の調査やマニュアル執筆にも携わりました。それは、ご家族や葬儀の参列者はもちろん、エンバーマー、ご遺体を搬送する担当者、葬儀の担当者、火葬場職員など、関わるすべての人々が安全な状態で葬儀を執り行えるようにするためでした。 「さよならのない別れ」とエンバーミングの役割 ミネソタ大学名誉教授のポーリン・ボス博士は、COVID-19で家族を亡くした場合、それは「完全な喪失」ではなく「あいまいな喪失」になる可能性があると示唆しました。喪失そのものが不明瞭な状況であったため、喪失後に起こるグリーフの反応が複雑化したり、凍結したりすることが起こり得ると指摘したのです。 日本ではパンデミック初期から病院での面会制限や遺体への接触制限が広く導入され、「お見舞いにも行けない」「臨終に立ち会えない」「顔を見ることができない」「葬儀を行えないまま火葬される」といった事態が各地で起こりました。こうした状況下での喪失体験は、「本当に亡くなったのか」という思いが宙づりの状態になってしまいます。つまり、「心理的には存在しているが、身体的(物理的)には存在していない状態」に当たると考えられるため、いわば「さよならのない別れ」になってしまうことが危惧されました。 これらのことから、エンバーミングを活用し、感染対策を講じ安全を確保しながらも「死を現実として受けとめる場」を提供する必要性があると考え、当社は研究に協力しました。今後どのような状況においても、ご遺族に必要なお別れの場を提供できるよう研究に取り組み、情報提供に努めていくつもりです。 * * * 4回にわたり、この記事をお読みくださった方には、エンバーミングの「防腐」「殺菌」「修復」の3つの機能をどう活かすかで、意義のあるお別れができるようになることをご理解いただけたのであれば、うれしく思います。 執筆:橋爪 謙一郎株式会社ジーエスアイ 代表取締役一般社団法人グリーフサポート研究所 代表理事米国で葬祭科学とエンバーミング、グリーフサポートを学び、帰国後(有)ジーエスアイと(一社)研究所を設立。現在は東大大学院で脳科学的視点からグリーフの研究を行う。編集:株式会社照林社 【引用文献】1)日本遺体衛生保全協会:エンバーミングの法的解釈.https://www.embalming.jp/embalming/interpretation/2026/5/8閲覧2)株式会社ジーエスアイ:セレブラントとは.https://www.griefsupport.co.jp/griefsupport/celebrant.html2026/5/8閲覧3)The Funeral Directors Association of New Zealand:2023 New Zealand Funeral Industry Trends Report.2023.https://funeraldirectors.co.nz/assets/2023-FINAL-NZ-Funeral-Industry-Trends-Report-v3.pdf2026/5/8閲覧4)McCrindle Research Pty. Ltd.:Australian Bureau of Statistics, The Australian Funeral Directors Association Funeral Industry Trends Report 2024. https://mccrindle.com.au/app/uploads/2018/04/Deaths-and-funerals-in-Australia_McCrindle.pdf2026/5/8閲覧5)National Funeral Directors Association:2024 Consumer Awareness and Preference Studyhttps://nfda.org/about-nfda/research-and-information2026/5/8閲覧6)Church of England Data Services team:The Church of England, Detailed Diocesan tables for Statistics for Mission 2023.https://www.churchofengland.org/sites/default/files/2024-12/statisticsformission2023.pdf2026/5/8閲覧7)Office for National Statistics (ONS):Statistical bulletin, Death registered in England and Wales 2023.https://www.ons.gov.uk/peoplepopulationandcommunity/birthsdeathsandmarriages/deaths/bulletins/deathsregistrationsummarytables/20232026/5/8閲覧 【参考文献】○Pauline Boss:The Myth of Closure: Ambiguous Loss in a Time of Pandemic and Change.New York:W. W. Norton & Company;2021.○黒川雅代子,石井千賀子,中島聡美,他編著:あいまいな喪失と家族のレジリエンス 災害支援の新しいアプローチ:誠信書房,東京,2019.○ポーリン・ボス著,中島聡美,石井千賀子監訳:あいまいな喪失とトラウマからの回復 家族とコミュニティのレジリエンス.誠信書房,2015.

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)
訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)
コラム
2026年4月28日
2026年4月28日

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムPENUT 研修風景&受講者の声/日本訪問看護財団 

在宅での看取りに関わる訪問看護師には、実践を支える専門的な知識や技術に加え、療養者やご家族との関わり方、多職種との連携など、幅広い力が求められます。そうした力を体系的に学べるのが、日本訪問看護財団による訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム「PENUT(ピーナット)」です。本記事では、訪問看護ステーションで行われたPENUT演習の様子や受講者の声を紹介するとともに、研究成果から見えてきた受講後の実践の変化についても解説します。 PENUTの研修風景 PENUTは、オンデマンド講義とライブ演習で構成されるプログラムです(詳細は前回の記事をご参照ください)。ライブ演習は、150名規模のオンライン研修から、数名で行う集合研修まで、目的に応じて多様な形式で実施されています。今回は、2026年1月にあすか山訪問看護ステーションで開催されたPENUT演習の様子をご紹介します。  開催場所:あすか山訪問看護ステーション(東京都北区) 開催日時:2026年1月17日(土) 9:30~15:00  東京都、埼玉県、千葉県の訪問看護ステーションより訪問看護師5名が参加しました。午前は「訪問看護計画の立案」、午後は「コミュニケーション技術の習得(ロールプレイ)」をテーマに演習が行われ、活発な意見交換が行われました。  研修後のアンケートでは、参加者全員が「在宅看取りができそう!在宅看取りをやってみよう!」という気持ちが「とても高まった」と回答しました。その理由としては、「在宅看取りや訪問看護における大切な考え方を学び、本質的な意見交換ができた」、「みなさんが悩む部分や関わり方の工夫を知れてよかった」などの声が寄せられました。少人数・対面だからこそ生まれる深い学びと、実践に直結する気づきが多く得られた様子がうかがえました。  PENUT受講者の声  PENUT受講者の声を紹介します。  寺師 千恵さん(株式会社ウッディ 訪問看護ステーションはーと/2025年度PENUT修了)―PENUTを受講したきっかけや理由を教えてください。訪問看護に約1年前に復帰し、さまざまな研修を受講しながら学び直していたときに、PENUTの講師でもある上司から紹介されました。体系的な知識を順序立てて学べる点に魅力を感じ、受講を決めました。これまで多くのお看取りを経験させていただきましたが、必要な支援はご本人、ご家族、環境によって異なり、その都度悩んだり立ち止まったりする場面があります。だからこそ、勉強を続けていかなくてはいけないと思っています。―実際に受講されて、PENUTの講義で印象に残っていることはありますか。とても充実した内容だったので、印象に残っていることはたくさんあるのですが、例えば「在宅看取りにおける臨床推論」は非常に勉強になりました。現場でどのように考えを組み立て、実践につなげていくのか、これまでは自身の経験に頼る部分が大きかったのですが、体系的に知識として学べたことは大きかったです。痛みのアセスメントなどは実践でも活用しています。また、「ご家族への支援」や「グリーフケア」も印象に残っています。それぞれのご家庭がもつ文化的背景に配慮する大切さや、コミュニケーションや対話を通してその背景に気づく力の重要性を改めて実感しました。―演習はいかがでしたか。経験豊富な看護師さんが多く、さまざまな経験をもとに「看取り」というものを一緒に深く考えることができたと感じています。例えば、痛み止めを使うことに抵抗がある利用者さんに関する話題が印象的でした。私たちはどうしても「何とか痛み止めを使ってもらう方法はないか」という問題解決型の思考で考えがちです。しかし、その方にはどのアプローチもうまくいかなかったそうです。そこで一度立ち止まり、ご本人とご家族と一緒に考えていく姿勢に切り替えたといいます。そして丁寧に話を聞いていくなかで、ご本人は「薬以外で自分がリラックスして楽にいられる方法を探したい」と考えていたことが分かり、「入浴」という希望を引き出すことができたそうです。このように、「痛みをゼロにしなくてはいけない」という価値観から一度離れることで、新しい選択肢が生まれてくるという議論ができました。この議論は、私自身が大切にしている「枠組みや視点を捉え直す」という考え方と深くつながるもので、とても勉強になりました。―PENUTの受講を検討している方へ、メッセージをお願いします。講義はすべてオンラインで、受講期間内であればどこからでも繰り返し視聴できる点はおすすめポイントです。私は平日の帰宅後や土日の空いている時間に視聴しましたが、1日1時間でも確保できれば無理なく進められます。そして、何より魅力的なのが講師陣の豪華さです。第一線で活躍されている著名な先生方から学べる機会は、PENUTならではだと感じています。演習については、私は集合研修を受講しましたが、ロールプレイでは現場さながらリアルな体験ができ、学びが一層深まりました。 大倉 みのりさん(株式会社つむぐ風 つむぐ訪問看護ステーション/2022年度PENUT修了) ―PENUTを受講してから、看取りケアを実践されていますか。 ステーション全体では、年間20~30件のお看取りをしています。私自身は、PENUTを受講した当時は先輩の同行訪問でターミナルケアに携わる程度でしたが、この3年間で10件ほどのお看取りを担当させていただきました。 ―特に印象に残っているお看取りはありますか。 とても仲のよいご家族が協力しながらお看取りされた、非がんの利用者さんが印象に残っています。ご家族は、お小水の量が少なくなってきたり、むくみが増えたりといった体の変化についていけず、不安を抱えている様子でした。そこでスタッフ間で連携し、終末期の身体の変化をまとめたパンフレットを用いて一つひとつ説明したところ、ご家族は安心され、最期まで自宅でケアを続けることができました。PENUTで学んだ「死にゆく過程の身体的変化」の知識が役立った場面でした。 ―ほかにもPENUTの講義や演習で、実践にいかせていると感じることはありますか。 PENUTを受講した当時、利用者さんから「こんなに辛い症状が続くんだったら、もう死にたいわ」と言われた際に、どう受け止めてよいか分からず、言葉に詰まってしまう自分がいました。「在宅看取りに必要なコミュニケーション技術」の講義では、自分の中に生じる「心の壁(ブロッキング)」を自覚し、それを意識的に脇に置いて、相手に寄り添って気持ちを聴くことの大切さを学びました。今でも、利用者さんからマイナスな言葉が出たらどうしようと身構えてしまうことはありますが、自分の気持ちは一度脇に置き、まずは利用者さんの思いをありのままに受け止めることを意識して関わっています。 ―PENUTの受講を検討している方へ、メッセージをお願いします。 お看取りに対して不安を感じている方には、ぜひPENUTを受講していただけたらと思います。「こういうとき、どうしたらいいんだろう」と感じていたことが、PENUTではしっかり学べたという実感があり、受講してよかったと思っています。終末期には、機能が徐々に低下していくことでさまざまな症状が現れますが、そのしくみは何となく頭で理解していたものの、うまく言語化できていませんでした。PENUTで学んだことで、身体の変化をご本人やご家族に説明できるようになり、それが自分の自信にもつながりました。  研究成果からみるPENUT受講者の変化  次に、PENUTの有効性を検証した研究成果をご紹介します。  PENUTは終末期ケアに対する自信を向上させる  2021年度に実施したモデル事業では、PENUTを先に受講する介入群と、後から受講する対照群にランダムに割り付け、緩和ケアに関する医療者の自信・意欲尺度(訪問看護バージョン)を用いて、PENUTの有効性を検証しました。  介入群のみがPENUTを受講した時点で、介入群(62名)は対照群(59名)よりも「終末期ケア」および「医師とのコミュニケーション」に対する自信が向上し、「症状緩和」の困難感が減少しました。  PENUT受講者の実践の変化―「根拠ある説明」と「柔軟なケア」  同モデル事業参加者へのインタビュー調査では、PENUT受講により知識を習得できたことで、「亡くなるまでの身体的変化がイメージできるようになった」、「症状に対するアセスメントやアプローチ、ケアの幅が広がった」、「暮らしの中で柔軟なケアができることに気づかされた」といった変化が語られました。さらに、「病態変化や予後を予測し先手を打った対応がとれるようになった」、「療養者やご家族に根拠ある説明ができるようになった」など、実践面での成長も明らかとなりました。 研修情報・詳細はこちら さらに詳しい情報や研修開催情報については、PENUT専用ウェブサイトをご覧ください。 https://www.jvnf.or.jp/penut/  次回はPENUT指導者の声と今後の展望についてご紹介します。  執筆:濱谷 雅子(はまたに まさこ)/公益財団法人 日本訪問看護財団 事業部 博士(看護学)。早稲田大学スポーツ科学部を卒業後、修士課程から看護学の道へ。2020年度より現職。日本訪問看護財団が5年間にわたり実施した「訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムの開発」事業では、主研究者として開発に携わる。訪問看護師の優れた実践をインタビュー調査などを通じて理論化し、その成果を広く社会へ発信する研究活動を行っている。 

訪問看護の組織づくりでMVVが必要な理由
訪問看護の組織づくりでMVVが必要な理由
コラム
2026年4月14日
2026年4月14日

訪問看護の組織づくりでMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)が必要な理由

訪問看護ステーションの運営では、日々さまざまな判断が求められます。利用者・家族・多職種との調整、スタッフ教育、緊急対応――。その場その場で最善の選択をし続けることは簡単ではありません。ステーションの規模が大きくなるほど、判断基準の違いによる迷いや負担が管理者に集中しやすく、「組織としての軸」を求める声が増えてきます。こうした背景から近年注目されているのが、組織の理念や価値観を言語化した「MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)」です。訪問看護において、なぜMVVが重要なのでしょうか? その理由とメリットを、現場の課題と照らし合わせながら解説します。 訪問看護の組織づくりでMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)が必要な理由 訪問看護ステーションの運営において、「MVV(Mission・Vision・Value)」を掲げるケースが増えてきました。日本語にすると「使命」「目指す未来」「価値観」ですが、耳なじみのない方もいるかもしれません。知っていたとしても、「理念を作った方がいいとは聞くけれど、忙しくてそこまで手が回らない」「本当に必要なのだろうか?」と感じている管理者の方も多いのではないでしょうか?確かに、理念がなくても、訪問看護の現場は回るでしょう。それでも多くのステーションが、ある段階で組織運営の壁にぶつかります。 そこで今回は、訪問看護ステーションにおいてMVVを明確にするメリット、明確にしないデメリットをお伝えしたいと思います。 訪問看護では理念がなくても機能する一方で… 訪問看護は、専門職の集まりです。看護師はそれぞれ高い倫理観を持ち、「利用者さんのために」という思いを共有しています。そのため、組織として明確な理念がなくても、現場はある程度機能します。 「利用者に寄り添うケアを行い、チームで協力しながら業務を進める」ことは、多くの看護職が当たり前のように行っているでしょう。しかし、ここに落とし穴があります。それは、「良いと思っていること」の基準が人によって違うということです。例えば、 利用者からの急な訪問依頼にどこまで応えるのか 家族からの相談にどう対応するのか 時間外対応をどう判断するのか こうした場面で、スタッフごとに判断が分かれることがあります。 小規模な組織であれば、管理者の考え方や暗黙のルールで回ることもあります。しかし、組織が少しずつ大きくなってくると、この違いが徐々に表面化してきます。 組織が大きくなると生じる価値観のズレ 訪問看護ステーションの運営では、スタッフが増えるほど組織マネジメントの難易度が上がります。人数が少ないうちは、 管理者の価値観 長く働くスタッフの経験 暗黙のルール などで組織がまとまることもあります。 しかし、スタッフが増え、新しいメンバーが加わると、価値観のズレが生まれやすくなります。例えば、 ケアの優先順位の考え方 利用者や関係者への対応のしかた チーム内の役割意識 といった部分で小さな違いが積み重なると、チームとしての一体感が弱くなります。 さらに、判断のたびに管理者に確認するような組織になると、管理者の負担も大きくなります。「このケースはどう対応したらいいですか?」「この判断でよかったでしょうか?」こうした相談が増えれば増えるほど、管理者は現場判断を一手に引き受けることになります。 訪問看護管理者の役割は方向性を示すこと 訪問看護管理者の仕事は多岐にわたります。人材管理・クレーム対応・地域連携・経営管理など、日々の業務に追われることも少なくありません。その中でも特に重要な役割が、組織の方向性を示すことです。訪問看護は現場判断の連続です。利用者や家族の状況は一人ひとり異なり、マニュアルだけでは対応できない場面も多くあるでしょう。だからこそ、スタッフが迷ったときに立ち返ることができる「軸」が必要になります。その軸を言語化したものが、MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)です。 MVVは組織の判断基準になる MVVを改めて定義すると ●Mission(使命):私たちは何のために存在するのか●Vision(目指す未来):どんな組織を目指すのか●Value(価値観):どんな行動を大切にするのか を言語化したものです。これらが明確になると、現場の判断基準が揃います。MVVを明らかにすれば、スタッフが迷ったときに、「私たちの価値観から考えるとどうだろう?」と考えることも可能です。 管理者がその場にいなくても、組織としての判断ができるようになることから、管理者の負担を減らすという意味でも非常に大きな効果があります。 MVVがチームを強くする MVVのもう一つの役割は、チームの一体感を生み出すことです。訪問看護ステーションは、背景が異なる医療職が集まってチームを形成しています。一人ひとりの経験や価値観が違うからこそ、組織として大切にするものを共有することが重要です。 MVVがある組織では、 同じ方向を向いて仕事ができる 判断基準が共有される チームとしての一体感が生まれる といったポジティブな変化が起き、チームを強くするのです。また、MVVを組織で共有することで、採用の場面でも効果が期待できます。理念に共感して入職するスタッフは、組織に馴染みやすく、長く働く傾向があります。 まとめ:組織のコンパス「MVV」を明確にしよう! MVVを明確にするのは、立派な言葉を掲げるためではありません。大切なのは、組織のコンパスとして機能させることです。訪問看護の現場では、日々さまざまな判断が求められます。そのときに、組織全体で大切にする価値観があるかどうかで、チームワークは大きく変わります。もし今あなたが、組織運営に迷いを感じているのであれば、一度立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか?「私たちは、何のためにこのステーションを運営しているのか?」「どんな組織を目指し、どんな行動を大切にするのか?」これらを明確にし、共有することが、強い組織づくりの第一歩になるかもしれません。 執筆・編集者:米沢まさこ(看護師ライター)監修:小瀬文彰(看護師・保健師・経営学修士)株式会社UPDATE代表取締役2013年慶應義塾大学看護医療学部卒。ケアプロ訪問看護ステーション東京にて、新卒訪問看護師としてキャリアをスタート。訪問看護の現場・マネジメント経験の後、薬局・訪問看護を運営するスタートアップ企業にて最高執行責任者として40拠点・年商65億規模の経営に携わり、上場企業へのグループインを実現。現在は株式会社UPDATEの代表として、訪問看護のマネジメントコーチ(経営・組織づくり支援)や組織マネジメント講座を通し、「想いある医療者に、マネジメントの力を」届ける事業を展開中。その他、業界団体の研修会登壇や調査研究支援(シンクタンク事業)も実施中。

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)開発秘話/日本訪問看護財団
訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)開発秘話/日本訪問看護財団
コラム
2026年3月24日
2026年3月24日

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)開発秘話/日本訪問看護財団

在宅で最期を迎えることを希望する人がいるなか、訪問看護師は、療養者や家族に寄り添いながら看取りを支える重要な役割を担っています。そうした社会的背景のもと誕生したのが、訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT:ピーナット)です。本記事では、PENUTの特徴とともに、開発に込められた思いや歩みを紹介します。 ■公益財団法人 日本訪問看護財団 PENUT事務局職員 平原 優美(ひらはら ゆみ)/常務理事、在宅看護専門看護師小沼 絵理(おぬま えり)/事業部所属岸 純子(きし じゅんこ)/事業部所属、在宅看護専門看護師角田 佳奈美(すみだ かなみ)/事業部所属濱谷 雅子(はまたに まさこ)/事業部所属※手前左から時計回りに記載 執筆:濱谷 雅子(はまたに まさこ)/公益財団法人 日本訪問看護財団 事業部博士(看護学)。早稲田大学スポーツ科学部を卒業後、修士課程から看護学の道へ。2020年度より現職。日本訪問看護財団が5年間にわたり実施した「訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムの開発」事業では、主研究者として開発に携わる。訪問看護師の優れた実践をインタビュー調査などを通じて理論化し、その成果を広く社会へ発信する研究活動を行っている。 訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)ってなに? 訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT: Program of End-of-life care for home visiting NUrses Training)は、在宅看取りを実践できる訪問看護師の養成を目的としたプログラムです。オンデマンド講義(約10時間)と演習(1日間)で構成されます(図1)。 2021年度に実施したモデル事業を含め、2026年1月末までに818名が修了しています。 【PENUTの3つの特徴】 PENUTの主な特徴は以下の通りです。 1. エビデンスに基づく系統的なプログラムPENUTは、アンケート調査、インタビュー調査、専門家のレビュー、モデル事業を経て開発された、エビデンスに基づく系統的なプログラムです。PENUTの有効性を検証した研究1)は、日本看護科学学会にて学術論文優秀賞および最優秀演題口頭発表賞を受賞しました。 2. 在宅看取りに卓越した訪問看護師と医師による臨場感ある講義講義は、在宅看取りに豊富な経験をもつ訪問看護師と医師が担当しています(表1)。各講義では、実際の事例に基づく支援の過程や療養者・家族とのコミュニケーションの様子などが再現され、臨場感のある学びが得られます。また、講義はオンデマンド配信のため、受講期間内であればいつでもどこでも何度でも視聴可能です。 3. 専門的な教育を受けたファシリテーターによる演習演習では「訪問看護計画の立案」と「コミュニケーション技術の習得」をテーマにグループワークを行います。訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム(PENUT-T)※により専門的な教育を受けた指導者がファシリテーターを担当します。 ※ 訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム(PENUT-T:Program of End-of-life care for home visiting NUrses Training-Trainer)は、PENUTを開催できる指導者を養成する教育プログラムです。詳しくは別の記事で紹介します。 PENUTはどうして誕生したの? 日本訪問看護財団では、訪問看護師による在宅看取りの推進を目的に、2017年度よりELNEC-J(End-of-Life Nursing Education Consortium-Japan)コアカリキュラムを用いた研修を実施してきました。ELNEC-Jは科学的根拠に基づいた有用なプログラムですが、主に医療施設における成人がん患者のケアを想定しており、当財団としては訪問看護に特化した包括的な看取り支援のための教育プログラムの必要性を感じていました。 国内の年間死亡者数は2040年には約168万人に達すると推計されています2)。また、国民の約半数は自宅で最期を迎えることを希望しています3)。こうした社会的背景を受け、当財団は2020年度よりPENUTの開発に着手しました。 PENUTの開発秘話 PENUT開発の歩み PENUTの開発は、日本財団の助成を受けて2020年度に始まり、5年間の計画で進められました。 図2に示すように、はじめに有識者で構成される検討委員会(委員長:東京大学・山本則子教授)とワーキング委員会を設置し、文献検討、アンケート調査、インタビュー調査を重ねてプログラム案を作成しました。その後、モデル事業の実施・評価を行うなど、複数の段階を経て完成に至りました。 コロナ禍での手探りのスタート PENUT開発事業は、まさにコロナ禍の真っただ中にスタートしました。緊急事態宣言が発令されるなか、訪問看護の現場は日々対応に追われ、ひっ迫した状況にありました。そのような状況で「プログラム開発をしている場合ではないのではないか」という声もありました。一方で、多死社会の到来は目前に迫っており、地域で看取りを支えるしくみづくりは待ったなしの課題です。こうした中長期的な視点で事業を進めることも、当財団の使命であると考え、PENUT開発事業をスタートさせました。 しかし、いざ事業を始めてみると、プログラム開発の手順や進め方について、右も左も分からないことばかりでした。どのような段階を踏めば質の高い教育プログラムがつくれるのか、どのように根拠を積み上げていくのか、手探りの状態からのスタートでした。 課題に一つひとつ向き合い、積み上げた5年間 そこで、財団事務局とワーキング委員で、国内外の類似プログラムや教育理論、研究方法について、文献を読み込み、必要なプロセスを一つひとつ整理していきました。そして、プログラムの開発や評価研究の経験をもつ専門家から助言をいただきながら、少しずつ事業の形を整えていきました。 こうして動き出した事業でしたが、5年間の道のりは決して平坦ではありませんでした。モデル事業の参加者は集まるのか、効果的なコミュニケーション技術演習をオンラインでどのように行うのか、収集した膨大なデータをどのように分析しプログラムに反映させるのかなど、一つひとつの課題に対し、事務局で議論を重ね、検討委員とワーキング委員の助言を得ながら進めていきました。 現場の訪問看護師の思いと実践がプログラムに そのようななかで、モデル事業に参加し、開発に協力してくださった全国の訪問看護師の皆さんの存在は、私たちの大きな支えとなりました。インタビュー調査では、日々悩みながらも積み重ねられている素晴らしい実践を、丁寧に、時に熱を込めて語ってくださいました。その語りに触れるたびに、「このような実践ができる訪問看護師をもっと増やしたい」という思いが強くなりました。 さらに、プログラムの講師や演習のファシリテーターを担当してくださったのも、まさに現場で看取りを支えている訪問看護師の方々でした。ご自身の経験を惜しみなく共有し、受講者に寄り添いながら学びを導く姿に、私たちは何度も心を動かされました。その実践の深さに触れるたび、「この内容を社会へ発信したい」という思いを強くしました。 このように、全国の訪問看護師の皆さんが語ってくださった実践、講師やファシリテーターとして支えてくださった方々の熱意、そして専門家の助言が、プログラムの要素を形づくっていきました。まさにPENUTは「現場とともにつくる教育プログラム」として育まれてきたのだと感じています。 研修情報・詳細はこちらさらに詳しい情報や研修開催情報については、PENUT専用ウェブサイトをご覧ください。 https://www.jvnf.or.jp/penut/ 次回は、「PENUT誕生で変化する看取りの現場」と題し、受講者の声を紹介します。>>次回の記事はこちら訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムPENUT 研修風景&受講者の声/日本訪問看護財団 - NsPace(ナースペース)-家で「看る」あなたを支える 【参考文献】1)濱谷雅子, 平原優美, 小沼絵理, 沼田華子, 野口麻衣子, 菱田一恵, 岡本有子, 竹森志穂, 新幡智子, 栗田佳代子, 山本則子:無作為化比較試験による訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)の有効性の検討. 日本看護科学会誌, 44, 218-227, 2024. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jans/44/0/44_44218/_pdf/-char/ja2026/3/10閲覧2)内閣府(2022):第1章 高齢化の状況 高齢社会白書 (令和4年版),5, 日経印刷株式会社.3)厚生労働省(2023): 人生の最終段階における医療・ケアに関する意識調査報告書.https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/saisyuiryo_a_r04.pdf2026/3/10閲覧

ALS患者に必要なリハビリテーション【呼吸筋編:柔軟性を維持し合併症予防】
ALS患者に必要なリハビリテーション【呼吸筋編:柔軟性を維持し合併症予防】
コラム 会員限定
2026年3月10日
2026年3月10日

ALS患者に必要なリハビリテーション【呼吸筋編:柔軟性を維持し合併症予防】

本記事は、医療関係者のスキルアップを目的として医療機器の画像を掲載しているため、NsPace会員様(医療関係者)限定で公開しています。 ALSを発症して10年、現役医師・梶浦先生によるコラム連載、第2弾。ALSでは、進行とともに呼吸筋の機能が徐々に低下していきます。そのため、呼吸機能をなるべく長く保てるようリハビリテーション(以下、リハビリ)がとても重要です。今回は、呼吸のしくみを踏まえた上で、梶浦先生が実践するリハビリの方法についてご紹介いただきます。 ※推奨されるリハビリの方法は、個人の症状によって異なります。必ず、主治医や担当のリハビリスタッフ同意のもとで実施してください。安全のため、自己判断で行うのは避けましょう。 はじめに 前回のコラム(「ALS患者に必要なリハビリテーション【四肢編:拘縮予防が最大のポイント】」参照)では、四肢のリハビリ⽅法をご紹介しました。今回は体幹、特に呼吸筋のリハビリを取り上げます。 ALSは、全⾝のさまざまな筋⼒が低下していく進⾏性の疾患です。呼吸を司る呼吸筋も例外ではありません。呼吸筋も筋⼒が低下して使わなくなっていくと柔軟性が失われ、肺の予備能⼒が低下し、無気肺(肺の⼀部に空気が⼊っていない状態)や肺炎などのリスクが高まります。 このため、肺や呼吸筋の柔軟性を保つリハビリがとても大切です。リハビリの方法を理解するためには、まず⼈がどのように呼吸をしているのか、そのしくみについて説明していきます。 呼吸のしくみ ⾃分の⼒で肺⾃体を膨らませて空気を取り込んでいると思われている⽅もいらっしゃるかもしれませんが、実際にはそうではありません。肺そのものには膨らむ機能はなく、胸郭と横隔膜を広げることで胸腔内(胸郭と横隔膜に囲まれた肺を収納しているスペース)を陰圧にし、間接的に空気を肺に取り込むことで呼吸が行われています。 胸腔内の容積を広げる⽅法は、⼤きく分けて2つあります。 ●胸式呼吸外肋間筋を収縮させ、肋骨を引き上げて胸郭を前後左右に広げる⽅法●腹式呼吸横隔膜を収縮させて、胸腔内を下方向に広げる⽅法 通常の呼吸ではどちらか⼀⽅ではなく、外肋間筋と横隔膜、両⽅の働きによって呼吸運動が⾏われています(図1)。 図1 呼吸のしくみ リハビリに適した体勢 横隔膜の下には、肝臓や胃、腸などの内臓があります。⽴位や座位であれば、重⼒によって内臓が下がるため、横隔膜が広がるスペースができます。しかし、ALSの症状が進⾏すると、⼈⼯呼吸器を装着し、仰臥位(仰向け)の姿勢で過ごすことが多くなります。 ⼈⼯呼吸器を使用している状態では、呼吸はほぼ⼀定の間隔と換気量に設定されるため、深呼吸ができません。また、内臓が重力で下がらないため、横隔膜を使った腹式呼吸もしづらくなります。これらの理由から、仰臥位では胸式呼吸が中心となります。 そうすると、下肺野まで空気が十分に届かず、痰の貯留や無気肺の原因になってしまいます。可能であれば、できるだけ座位に近い姿勢になるようベッドを起こすか、⾞椅⼦に移乗した状態で、横隔膜と下肺野がしっかり広がる体勢を整えてからリハビリを始めてください。 肺・胸郭の柔軟性を保つためのリハビリ 用手的呼吸介助手技 ⽤⼿的呼吸介助⼿技 (breathing assist)は胸郭の弾性を利⽤し、胸郭の⽣理的運動に一致する方向に圧迫する⼿技です。 具体的には、介助者の手掌から指先までを胸郭の形状にぴったりと合わせる様に密着させて、呼気時に胸郭を斜め下方向に圧迫することで、胸式呼吸のリハビリが行えます。これにより、胸郭の柔軟性をある程度維持できます。圧迫する方向は、仰臥位と座位で変わりません(図2)。 図2 用手的呼吸介助手技(呼気時) 注意!:用手的呼吸介助手技は、骨粗鬆症といった骨折リスクのある基礎疾患をお持ちの⽅は控えたほうがよいです。必ず主治医の同意を得て⾏うようにしてください。 呼吸リハビリ機器を用いたリハビリ より効率的に胸式呼吸と腹式呼吸のリハビリを⾏うために、呼吸リハビリ機器である「LICトレーナー(R)」(図3/以下、登録商標マーク(R)を省略し表記)を使用する方法があります1)。 LICとは、「lung insufflation capacity」の略で、「肺強制吸気量」を意味します。LICトレーナーにアンビューバッグを接続し、用手的に肺に空気を入れることで、強制的に深呼吸した状態をつくり、この状態を一定時間保つことができます。これにより胸郭と横隔膜の両方を広げられるため、これまで外部からのアプローチが困難であった腹式呼吸のリハビリも可能になりました。 なお、LICトレーナーの概要は、前回のコラム#21「ALS患者に必要な情報「実用編」 ~のど~」でご紹介していますので、ぜひそちらをご参照ください。今回は、LICトレーナーを使って、実際にどういった方法でリハビリを行っているのかをご紹介したいと思います。 図3 LICトレーナー LICトレーナーは主治医の許可を得て、理学療法⼠の指導のもと、⾃宅での使⽤が可能です。継続的に使⽤することで、肺の柔軟性維持や咳嗽⼒の向上が期待できます。 ●導入開始時期のめやす「⾃分の⼒では深呼吸ができない」と感じた時期から、気管切開して⼈⼯呼吸器を装着してからでも、いつでも開始可能ですので、主治医と相談してみてください。私は、呼吸のリハビリを開始するのに遅すぎることはないと思っています。 ●具体的なリハビリの⽅法 導入時・20cmH2Oから開始する・気道内圧20cmH2Oまで加圧し、5~10秒程度息止めをし排気した後、適宜インターバルを入れる(用手換気〔バギング〕回数:500mL×4~5回程度)・これを5回繰り返して1セットとし、1日3~6セット行う・肺活量が測定可能な段階の方は、⾃⼒での肺活量との差を1,000mL以上に維持できるとよい 上記のリハビリに慣れてきたら、主治医と相談しながら、少しずつ気道内圧を上げていきます。 深吸気換気量が物⾜りなくなったら……・気道内圧30~40cm H2O まで加圧し、5~10秒程度息止めをし排気した後、適宜インターバルを入れる(バギング回数:500mL×6~8回程度)・これを5回繰り返して1セットとし、1日3~6セット行う さらに慣れてきたら、主治医と相談の上、息止めの時間を適宜調整します。 私の場合、気道内圧40cmH2Oで30秒おきに胸郭を圧迫し、上肺野の容積を減らし、下肺野に空気がたくさん⼊るように横隔膜をしっかりと広げています。そして、LICトレーナーでのリハビリが終わったら、⽤⼿的呼吸介助⼿技で胸郭のリハビリを⾏う、これを毎⽇3セット実施しています。 実際のLICトレーナーを使用する様子は、動画でもご覧いただけます。▼enjoy ALS (YouTubeチャンネル)https://www.youtube.com/@S.Kaji_SND ※リンク先はYouTube(外部サイト)となります。※チャンネル内の「ALS_LICトレーナー導入編」「ALS_LICトレーナー応用編」の動画をご参照ください。※動画の撮影では「なごみ訪問看護ステーション」に協力いただきました。 LICトレーナー使用時の注意点:LICトレーナーは肺に圧をかけて⾏うリハビリのため、練習および導入は、肺実質に以下のような問題がある場合は実施しないでください2)。・慢性閉塞性肺疾患(COPD)・肺気腫・ブラ(肺の内部に異常な量の気泡が形成された状態)・気胸の既往また、2025年8月現在、LICトレーナーは保険適⽤外で、導⼊には約5万円程度の費⽤がかかります。経済的な負担が大きい場合は、医療保険を使って⼈⼯呼吸器と一緒にレンタルできる「カフアシスト」を代替手段として選択する方法もあります。 コラム執筆者:医師 梶浦 智嗣「さくらクリニック」皮膚科医。「Dermado(デルマド)」(マルホ株式会社)にて「ALSを発症した皮膚科医師の、患者さんの診かた」を連載。また、「ヒポクラ」にて全科横断コンサルトドクターとしても活躍。編集:株式会社照林社 【引用文献】1)Yorimoto K,Ariake Y,Saotome T,et al:Lung Insufflation Capacity with a New Device in Amyotrophic Lateral Sclerosis:Measurement of the Lung Volume Recruitment in Respiratory Therapy.Prog Rehabil Med 2020;5.https://doi.org/10.2490/prm.202000112025/10/23閲覧2)「LIC トレーナー」添付文書https://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/kikiDetail/ResultDataSetPDF/202126_11B3X10044000001_A_01_022025/10/23閲覧

エンバーミングとご家族のケア―最後の時間を穏やかに過ごすために
エンバーミングとご家族のケア―最後の時間を穏やかに過ごすために
コラム
2026年2月17日
2026年2月17日

エンバーミングとご家族のケア―最後の時間を穏やかに過ごすために

エンバーミングは、ご遺体の状態を保つための技術であると同時に、大切な人の死を受け止め、お別れの準備ができるよう時間と環境を整えるための支援でもあります。今回は、エンバーミングによる心理的な影響や、著者が代表取締役を務める株式会社ジーエスアイで取り組んでいる施術後のご家族との関わりについて教えていただきます。 はじめに ACP(アドバンス・ケア・プランニング)をはじめ、患者本人の医療行為に関する意思を尊重する取り組みが広がりつつあります。それと同時に、さまざまな民間団体が「終活」という枠組みの中で、亡くなる前にご家族の負担を軽減するための活動を積極的に展開しています。 「最後にどのように送られたいか」「どのように送りたいか」を本人とご家族、それぞれの希望を生前に共有し、準備しておくことで、いざという時に心の余裕が生まれ、その人らしい最後を迎えられるのだと思います。 アメリカから帰国後に、終末期医療や訪問医療に携わる医療従事者と、エンバーミングについて意見交換をしたことがあります。ご家族にとってエンバーミングは「安らかできれいな姿でお見送りができる」「葬儀の日程が先になった場合でも、保冷庫の中に預けたままではなく、そばにいてあげられる」といった点から、選択肢の1つになり得ると肯定的な意見があった一方で、次のような疑問も投げかけられました。 「その変わらない姿を見ることで、長く一緒に過ごすうちに、かえって死を受け入れられなくなるのではないでしょうか」 こうした疑問を受け、今回は「エンバーミング」と「死を受け入れること」について、現在もエンバーミングと並行して取り組んでいる「グリーフ(悲嘆)」の視点から考察していきたいと思います。 「きれいな姿」が死の受容を妨げる? また別の機会に、葬儀社の方々とエンバーミングについて意見交換をした際にも、似たような話がよく聞かれました。 例えば、 亡くなって体温が下がり、さらにドライアイスなどで冷やされた身体に触れることで、死の現実を実感できる。変化しなければお別れの決心がつきにくい 儀式が滞りなく進むことで、死を受け入れることができる。エンバーミングを行い、日程を延ばせば、お別れができなくなる といった内容が代表的なものでした。 依頼を断るケースもある 起業した20年ほど前、まだエンバーミングを知る人も少なかった頃、あるご遺族からエンバーミングのご相談がありました。その方がエンバーミングを希望する理由を含め、長時間お話をお聴きする中で、その言動から故人との間に極度の依存関係があり、精神的にも執着している可能性が高いと感じられました。 また、日本遺体衛生保全協会(IFSA)が定める自主基準(表1)のうち、海外搬送の場合を除き、死亡後50日を超えてのご遺体の保存処置を行わないというルールにも同意いただけませんでした。そのため、依頼を受けてしまうと大きな問題へと発展する恐れがあると判断し、やむなくお断りしたケースでした。 表1 IFSAの自主基準 1.本人またはご家族の署名による同意に基づいて行うこと2.IFSAに認定され、登録されている高度な技術能力を持った技術者によってのみ行われること3.処置に必要な血管の確保および体腔の防腐のために最小限の切開を行い、処置後に縫合・修復すること4.海外移送をする場合を除いて、死亡と判定された日から50日を超えて保全しない 日本遺体衛生保全協会:エンバーミングの法的解釈.https://www.embalming.jp/embalming/interpretation/(2025/8/26閲覧)より許諾を得て転載 しかし、これはあくまでも例外的なケースであり、基本的に私たちは、IFSAの自主基準に同意していただければ、処置依頼を受けるようにしています。 その上で強調しておきたいのは、「お別れができないから」という理由で葬儀や火葬を取りやめた事例は、これまで一度もないということです。私たちはご遺族が大切な方と最後のお別れをきちんとできるように、できる限りの支援をしています。 実際、アメリカにおいてもエンバーミングを説明する際には、故人の面影やその人らしい表情を取り戻すための大切なプロセスとして「Preparation(準備)」という言葉がよく使われます。エンバーミングは、お別れの時間を整えるための行為であり、私たちの姿勢もそこに重なります。 処置後も関わり「死を受け入れる」手助けに エンバーミングを行っても、ご遺体が安置される環境によっては、状態が変化することがあります。それは皮膚の乾燥です。心臓の停止により血流が止まり、体内の水分供給が断たれるため、時間とともに水分が蒸発し、特に外気に触れる部分や皮膚の薄い部分が乾燥しやすくなります。 このため、処置後も表皮の保湿を続けなければ、どうしても乾燥は進んでしまいます。ご安置が1週間を超える場合には、定期的にご自宅を訪問してお身体の状態を確認し、保湿や化粧直しなどを行います。お見送りやお別れの日まで、よりよい状態を保つために故人と関わり続ける必要があるのです。これを、当社は「様子見」と呼び、大切な取り組みとして位置づけています。 また、この機会を利用して「死を受け入れる」プロセスを進めるための働きかけも行っています。 エンバーミングの処置依頼を受ける時点では、さまざまな事情から葬儀の日程が決まっていないこともあります。そのような場合には、ご遺族が納得した上でお別れの場に臨めるように、様子見の際にお話を伺いながら、後悔の念や罪悪感を抱えていることがあれば、その解消に向けた支援ができるよう意識しています。もう少し理解していただきやすくするために、当社が実際に行っている支援の工夫をお伝えしましょう。 少しずつ変化をつける ご遺体の安置時には、安らかに眠っているかのように見えるよう、パジャマや浴衣をお着せします。納棺の日には、その人らしさを象徴するようなお見送りのための服装への着替えをご提案することもあります。納棺を通じて、旅立ちの準備が進んでいることを自覚できるように変化をつけ、徐々に死を受け入れる流れを作っています。 罪悪感や後悔の解消をサポート 闘病中は病気の治療が最優先となり、それ以外のことが後回しにされることがよくあります。「おしゃれがしたい」「きれいにメイクをしたい」「爪をかわいくしたい」といった願いも、「元気になったらね」と先送りされることが多く、結果的に叶わなかったということが少なくありません。亡くなった後に、「生前にもう少し好きにさせてあげればよかった」と後悔されるご遺族が少なくないのです。 多くの企業では、エンバーミングとお化粧をエンバーミングセンター内で完結させます。しかし、先述したように、当社ではご希望があればご自宅でメイクはもちろん、マニキュアを塗るなど、生前にできなかったことを最後に叶えて差し上げることもあります。 生前にご本人がしたいとお話しされていたことや、ご家族の希望を細かくお伺いし、元気だった頃のお写真を参考にしながら、できる限りそのお姿に近づけていきます。最後にご家族と一緒に仕上げていく時間を設けることで、最後の思い出作りができるよう工夫をしています。 「おかえり」と迎える時間の大切さ ご遺族は、表情が戻った故人を見て、「おかえりなさい」「お家に帰ってきたよ」と声をかけられます。故人が病院で亡くなり家に帰ってきた時には、「死体」になってしまったという感覚が拭えないのか、遠巻きに見ているご遺族も中にはいらっしゃるのですが、エンバーミング後は、その感覚はなくなるそうです。大切な人との思い出がよみがえり、周囲の人に「ぜひ顔を見ていって」「あの人に会っていって」と声をかけられる方が本当に多いです。 エンバーミングを施しただけでも、ご遺体の状態が安定し、ご遺族の不安は解消されることでしょう。それだけでなく、ご遺体の前で、ご遺族が感じていることを話す機会を作ることで、最後のお別れまでの時間が、ゆっくりと「大切な人の死」を受け入れる時間になっていくのだと思います。  執筆:橋爪 謙一郎株式会社ジーエスアイ 代表取締役一般社団法人グリーフサポート研究所 代表理事米国で葬祭科学とエンバーミング、グリーフサポートを学び、帰国後(有)ジーエスアイと(一社)研究所を設立。現在は東大大学院で脳科学的視点からグリーフの研究を行う。編集:株式会社照林社

ALS患者に必要なリハビリテーション【四肢編:拘縮予防が最大のポイント】
ALS患者に必要なリハビリテーション【四肢編:拘縮予防が最大のポイント】
コラム
2025年12月16日
2025年12月16日

ALS患者に必要なリハビリテーション【四肢編:拘縮予防が最大のポイント】

ALSを発症して10年、現役医師・梶浦先生によるコラム連載、第2弾。ALSは筋肉そのものの病気ではないため、過度な筋力トレーニング(以下、筋トレ)は逆効果になることもあります。では、どのようなリハビリテーション(以下、リハビリ)が適切なのでしょうか。今回は、病気の進行に応じた適切なリハビリや、四肢の拘縮を防ぐ工夫について、梶浦先生ご自身の実践を交えて解説していただきます。 ALS患者にとってのリハビリとは これまでのコラムでも書いてきましたが、ALSは運動ニューロンが障害されることで、脳からの命令が筋肉に伝わらず、結果的に筋肉が動かせなくなっていく病気です。 筋肉自体の病気ではありません。 そのため、リハビリのポイントは、 適度に筋肉や関節を動かしていくことで、残存する運動機能をできる限り温存し、筋肉や関節が硬くなるのを予防していくこと につきます。 過度な筋トレは逆効果 徐々に筋肉が細くなり、筋力が落ちていくため、筋トレがよいリハビリだと思われる方もしばしばいらっしゃいます。しかし、過度な筋トレは以下の理由により、ALS患者には逆効果となってしまいます。 (1)ALSでは運動ニューロンが徐々に壊れていき、正常に機能している筋肉も少なくなっていくため残された筋肉を無理に使いすぎると、その筋肉やそれを支配する神経に過剰な負荷がかかり、症状の進行を早める可能性があります。   (2)ALS患者は筋肉の再生能力が健常者より低下しており、筋トレによるダメージからの回復が不十分になるため過度な筋トレによってダメージを受けた筋肉が修復されないまま疲労が蓄積され、結果的に筋力が低下してしまうことがあります。 体が動かせるうちにできるリハビリ まだ体が動かせるうちは「今できる日常動作を無理のない範囲で、できる限り継続していく」というのが、適切なリハビリです。 例えば、まだ歩ける方は、歩くこと自体がよいリハビリになります。過度な負荷をかけずに、歩くことをできる限り継続してください。ただし、転倒するようになってきたり、足元がおぼつかないと感じるようになったときには、無理せず主治医に相談してください。 ベッド上の生活でできる四肢のリハビリ 私のように、四肢体幹が動かせなくなり、人工呼吸器を装着して、主にベッド上での生活がメインになってからは、四肢と体幹(呼吸筋)の2つに分けてリハビリを考えるとよいでしょう。今回はそのうちの、「四肢のリハビリ」について書いていきたいと思います。 筋力が落ちて、自分の力では四肢体幹が動かせなくなると、体は自然と筋肉の緊張がゆるみ、安静に保つための基本的な姿勢をとるようになります(図1)。 図1 安静を保つ姿勢のイメージ この姿勢が楽だからといって、長時間同じ姿勢でいると、徐々に関節や筋肉がその状態で硬くなってしまいます。この現象を「拘縮」と呼びます。 拘縮が引き起こす問題 拘縮を起こしてしまうと、次のような理由から、日常生活の中でさまざまな弊害が出てきてしまいます。 血流が悪くなる 関節痛や筋肉痛の原因になる 関節の可動域が制限される(例えば、着衣や車椅子への移乗などの動作が難しくなる) ベッド上での生活がメインになっている段階では、自分の力で筋肉や関節を動かすことが難しいため、以下のいずれかが必要です。  他者に動かしてもらう 自分でもできる拘縮を予防する工夫を取り入れる 他者に体を動かしてもらう場合 ALS患者さんによって、硬くなる部位は異なります。 上位運動ニューロンが優位に障害されている部位:緊張性麻痺(筋緊張が亢進) 下位運動ニューロンが優位に障害されている部位:弛緩性麻痺(筋緊張が低下) リハビリスタッフさんや看護師さんは、これを前提に、個々の症状に合った可動域訓練をはじめとしたリハビリテーションを行うようしてください。 ただ、一般的に「硬くなりやすい動き」もあります。例えば、 手指の関節を屈曲・伸展する動き(こぶしを握ったり、開いたりする動き) 前腕を回外する動き(前腕を前に出し、手のひらを上に向ける動き。ちなみに、手のひらを下に向ける動きは回内です) アキレス腱を伸ばす動き などが多いです。そのことを意識しながら、可動域訓練をするとよいでしょう。 私が実践している拘縮の予防方法 拘縮を予防していく上で最も重要なのは、「頻度」です。いくらリハビリスタッフや看護師さんたちに体を動かしてもらったとしても、時間は限られています。そこで、ポイントとなるのが、「拘縮を予防する動きをできるだけ日常生活の姿勢の中に取り入れること」です。ここからは、私が行っている拘縮予防の工夫をご紹介します。 尖足(せんそく)拘縮の予防 尖足拘縮とは、足関節が足底のほうへ屈曲し、つま先が下を向いた位置で固まってしまうことをいいます(図2)。これはALS患者によく見られる代表的な拘縮の1つなので、早期から予防していくことを強くおすすめします。 図2 尖足拘縮とは 足関節が足底のほうへ屈曲し、つま先が下を向いた位置で固まってしまう状態。 私はサポート器具を自作し、尖足拘縮を予防しています。今回はその作り方をご紹介します。 ベッドのフットボード側の長さを測り、その長さに収まるように、木の板をカットする(板のカットはホームセンターで行ってもらえます) 木の板の上に発泡スチロール製のブロックをボンドで貼り付ける(発泡スチロールのブロックはホームセンターで購入可)・図3のようにゴムバンドを板とブロックに巻き付けるとさらに強度が上がる図3 ゴムバンドで固定した板とブロック 2をベッドの足元に置いて、図4のように足首が垂直になるようにする 図4 ベッドの足元に置いた板とブロック 作り方は以上です。足が届かない場合は、板の後ろにクッションを入れて厚みを調整してみてください。足を伸ばしている間は、なるべくこの姿勢を維持することで尖足を予防することができます。 前腕の回内拘縮の予防 まずは、図5のようにベッド上で上腕・前腕をなるべく外側にひねり、手のひらを上に向けます(回外肢位をとる)。 図5 回外肢位 このとき、クッションのように軽い重りとなるものを手のひらに乗せて、回外肢位を保持します(図6)。 図6 回外肢位を保持する工夫 余力があれば、かかとをお尻につけるように膝を曲げ、膝をクッションにもたれさせます。そうすることで、回外肢位に負荷をかけつつ、アキレス腱の伸展も同時に行え、尖足予防にもなるため一石二鳥です。 私はベッドの上にいる時は、ほとんどこの2つの姿勢で過ごしています。ぜひ参考にしてみて下さい。 実際のポジショニングの様子は、動画でもご覧いただけます。▼enjoy ALS (YouTubeチャンネル)https://www.youtube.com/@S.Kaji_SND ※リンク先はYouTube(外部サイト)となります。※チャンネル内の「ALS_自分でできる四肢の拘縮予防」の動画をご参照ください。  注意点:必ず専門家と相談を!今回ご紹介した拘縮予防の方法は、個人の拘縮の部位や症状によります。必ず、主治医やリハビリスタッフの同意のもとで行ってください。  コラム執筆者:医師 梶浦 智嗣「さくらクリニック」皮膚科医。「Dermado(デルマド)」(マルホ株式会社)にて「ALSを発症した皮膚科医師の、患者さんの診かた」を連載。また、「ヒポクラ」にて全科横断コンサルトドクターとしても活躍。編集:株式会社照林社

エンバーミングの手順とは? 専門的な処置について解説
エンバーミングの手順とは? 専門的な処置について解説
コラム
2025年11月18日
2025年11月18日

エンバーミングの手順とは? 専門的な処置について解説

エンバーミングには、大きく分けると「防腐」「消毒」「修復・化粧」の3つの目的があります。今回は、これらの目的のために、実際にどのような処置が行われているのか、現役のエンバーマーである牛渡一帆氏に解説していただきます。 エンバーミングの手順 エンバーミングは、体内・体外、両方からのアプローチによってご遺体の状態を安定させ、感染症に対する安全な環境をつくり、お姿を整える処置です。エンバーマーは、こうした処置を通じて、ご遺族が安心して最後のお別れに向き合うことができるよう支援しています。 エンバーミングは、大まかにまとめると次のような手順で行われます。 1. ご遺体の施設への受け入れ、必要書類やお預かり品の確認2. ご遺体体表の汚れの洗浄・消毒および状態確認3. 薬液の調合4. 表情の整え5. 血管の剖出6. 薬液の注入・排血7. 胸水や腹水、体腔内残渣物などの吸引8. 体腔内への薬液充填9. 各所切開部の縫合10. 全身の洗浄・洗髪11. 治療痕や点滴痕などの処置12. 着せ替え13. 表情の再調整・メイク14. ヘアセット15. 布団への安置または納棺 通常、処置に要する時間はおおよそ3時間ですが、ご遺族の要望や故人の体格、身体の状態によっては時間が前後したり、処置内容が追加されたりする場合もあります。広範囲にわたる損壊や欠損などがある場合では、丸一日お預かりすることもあります。 次に、エンバーミングの専門的な処置について詳しく解説していきます。 ご遺体に対する専門的な処置の実際 薬液の注入・排血 通常、生体では体内に取り込まれた酸素や栄養、水分は、動脈血によって全身の組織に運ばれ、各臓器で代謝や処理が行われます。そして、その過程で生じる二酸化炭素や老廃物、余分な水分は静脈血によって回収され、最終的に呼気や便、尿として体外へ排出されます。エンバーミングでは、この脈管の機能を利用し、動脈からの薬液注入と静脈からの血液排出(排血)を行います。 動脈を流れる薬液は、組織に作用し、防腐や消毒、血色をよくするといった効果を与え、静脈に入ると、残留している血液とともに老廃物や余分な水分など、腐敗の元になるものと混ざり合って流れていきます。 しかし、生体と違い代謝機能が失われているご遺体は、自力で不要な物質を体外へ排出することができません。したがって、静脈の一部を開放し、直接体外へ排血する必要があります。 薬液の注入に使用する動脈には、基本的に頸部や上腕、大腿にある血管を選択し、左右いずれか一側、または複数の箇所を切開します。排血には右内頸静脈を使用することが多いです。ただし、血流が滞るような障害(動脈硬化や血栓など)がみられる場合は、該当箇所に皮下注射で薬液を直接注入したり、皮膚に塗布して浸透させたりする方法をとることもあります。 血管の剖出と切開部の縫合 上記で述べた動脈と静脈を取り出すために、血管を覆っている疎性結合組織や脂肪組織を取り除く必要があります。この作業は解剖で行う「剖出」と同じです。該当箇所に2~3cmほどの切開を行い、血管を剖出します。薬液の注入と排血が完了した後は、最終的に切開部を縫合し、テープや修復用ワックスなどで目立たないように隠します。 胸水や腹水、体腔内残渣物などの吸引と薬液充填 さらに、脈管からでは対応しきれない部位にある胸水や腹水、胃の内容物、尿、便などを吸引します。腹部に1cm程度の穴を開けて、体腔内に残った腐敗要因となる物質を除去します。吸引後は、同じ場所から直接薬液を体腔内に充填します。 なお、エンバーミングで使用する薬液には、特殊なケースにも対応できるよう、さまざまな種類があります。状況に応じて、最適な薬液をそのつど選択しています。  組織の保湿や水分補給効果がある薬液 脱水や乾燥を促す薬液 やつれてしまった部位に組織の代わりとして充填する薬液 欠損箇所を補うためのワックス など 最後に、全身を洗浄します。 ここまでの処置は、あくまで「ご遺体の保全」を目的とした、エンバーミングならではの内容ですが、エンバーマーの仕事はそれだけではありません。 着せ替えや表情の再調整、ヘアセット われわれエンバーマーが、ご遺族と接することができる時間はあまり長くはありませんが、その中でできる限り、ご遺族の要望や故人への想い、エンバーミングに期待していることなどを教えていただきます。その情報に基づいて、故人の表情や髪型を整えたり、衣装の着付け、ひげや爪の手入れ、化粧を施したりします。 そのため、エンバーミングのご依頼時には、故人についての具体的な情報のご提供をお願いしています。 エンバーミングの依頼に必要なもの エンバーミングを依頼する際は、「死亡診断書(検案書)のコピー」と「エンバーミング依頼書」(以下、依頼書)の2点が必要です。また、故人に着せたい衣装や生前の写真、場合によっては入れ歯やウィッグ、アクセサリーなどをお預かりすることもあります。 依頼書には、ご遺族の要望を記入する欄があり、表情の整え方、ひげ剃りの要・不要、髪型、服の着せ方、メイクの希望などをご記入いただきます。内容によっては、高度な修復が必要になることもあります。 なお、依頼書には、2親等以内のご遺族による署名が求められます。 ご家族が立ち会えないからこそ依頼書が必要 エンバーミングでは、先述したような外科的な処置に加えて、ホルマリンを始めとする医薬用外劇物の使用を伴います。また、死亡診断書に記載された死因だけでは分からない、何かしらの感染症に故人が罹患している可能性もあります。こういったことを考慮し、エンバーミングは曝露対策や感染防御、故人のプライバシーに最大限配慮された「エンバーミングセンター」という専門の施設で行われます。 またエンバーミングは「日本遺体衛生保全協会」の認定資格を持つ専門のエンバーマーが実施するものであり、原則としてご遺族を含む第三者が立ち会うことはできません。 このような事情から、故人のお姿をご遺族の希望に近づけるためにも、依頼書の質問にお答えいただくようにお願いしています。 最後に エンバーミングの依頼は、特別な場合に限られたものではありません。最近では、「できるだけゆっくりと故人と過ごす時間をとりたい」「冷たくて重たそうなドライアイスをあの人の身体に乗せるのはかわいそう」「病気でやつれた顔を元気な頃のようにきれいにしたい」といった想いから、エンバーミングに価値を感じて依頼されるケースも増えています。 エンバーミングの一番の目的は、故人のお身体の状態を安定させることによって、ご遺族が安心して最後のお別れに向き合えるように時間を確保することだと考えています。そして、「大切な人の死」という現実を受け入れ、気持ちの整理をするための時間と場を提供するグリーフサポートの一環であると考えます。 担当するエンバーマーは、責任をもって、書類や写真を参考にしながら、目の前のお身体に向き合います。最後の時間に、ご家族が「大切な人にどのような姿でいてほしいか」「故人はご家族とどのようなお姿でお別れしたいか」を想像しながら、エンバーミングの処置を行っているのです。  執筆:牛渡 一帆(うしわた かずほ)株式会社ジーエスアイ エンバーミングセンター長一般社団法人日本遺体衛生保全協会(IFSA) 認定エンバーマー、スーパーバイザー一般社団法人グリーフサポート研究所認定 グリーフサポートバディ2011年にIFSAのエンバーマーに認定。2012年に株式会社ジーエスアイに入社。2020年、厚生労働行政推進調査事業費補助金新興・再興感染症及び予防接種政策推進研究事業「遺体における新型コロナウイルスの感染性に関する評価研究」に参加。エンバーミングの普及に努める。編集:株式会社照林社

ALSの4大陰性徴候を活用して日常生活を豊かにしよう!
ALSの4大陰性徴候を活用して日常生活を豊かにしよう!
コラム
2025年10月14日
2025年10月14日

ALSの4大陰性徴候を活用して日常生活を豊かにしよう!

ALSを発症して10年、現役医師・梶浦先生によるコラム連載、第2弾。今回は、ALSの重要なポイントである「4大陰性徴候」について取り上げます。症状が進行する中でも最後まで残る機能に注目し、それを日常生活でどのように活用していくかについて、実際に取り組まれている先生の工夫や実践例とともに解説していただきます。 4大陰性徴候とは何か ALSは全⾝の筋⾁が徐々に動かせなくなっていく病気です。教科書やインターネットなどでALSについて調べてみても、この「全⾝の筋⾁が徐々に動かせなくなっていく」というメインの症状に焦点が当てられており、「ALSに出にくい症状」にはあまり触れられていません。しかし、ALS当事者にとっては、こうした出にくい症状を理解し、将来を⾒据えて⽇常⽣活にうまく取り⼊れていくことがとても⼤切なのです! ALSには、出にくい症状が4つほどあり、これを「4大陰性徴候」といいます。このコラムの2回目(>>「分かりやすい! ALSの病態と症状」)でもお伝えしましたが、非常に重要なポイントですので、ここであらためて紹介します。 (1)目は最後まで動かせる! 手足や身体・顔がまったく動かなくなっても、目を動かす筋肉が最終的にある程度は残ることが多いです。 (2)尿意や便意はがまんできることが多い! 尿道や肛門をキュッと締める括約筋も筋肉ですが、障害は受けにくいです。つまり、尿や便が勝手に漏れて、垂れ流しにはなりにくいということです。 (3)感覚障害が起こりにくい! 見たり聴いたり、味覚を感じたり、冷たさや痛さなどを感じる感覚は最後まで残ります。 (4)「褥瘡」、いわゆる「床ずれ」ができにくい! 徐々に寝たきりになっていきますが、褥瘡はできにくいです。これは(3)で書いた、痛みなどの感覚は最後まで残ることが関係します(床ずれは痛いです)。 今回は、4大陰性徴候のうち(1)~(3)について、日常生活でどう活用しているか、私の実践を交えながら紹介していきます。 最後まで動く目を早めに活用しよう 「目は最後まで動かせること」が4⼤陰性徴候の中でも⼀番重要な症状になってきます。 コミュニケーションを取るとき、声が出せるうちは、がんばって声で会話をするでしょう。⼿が動かせるうちは、タブレットやパソコンの操作も、がんばって⼿を使って⾏うでしょう。しかし、それらもいずれできなくなっていきます……。 ここでとても⼤事なポイントは、「完全にできなくなる前に、目を使った⽅法も取り⼊れて、併⽤しながらやっていったほうがいい!!」ということです。完全にできなくなってからでは、絶望感と虚無感に襲われ、そこから目を使った⽅法に切り替えるのが難しくなります。 目を使った⽅法は「アナログな⽅法」と「デジタルな⽅法」の2つに分けて考えることができ、どちらも⽇常⽣活の中でとても重要な役割を果たします。それぞれの方法について説明していきたいと思います。 アナログな方法:⽂字盤を使って会話しよう! 声が出せなくなったら、いずれ「⽂字盤」を使った会話⽅法に切り替えていく必要があります。⽂字盤については第1弾コラムの10回目(>>「⽂字盤を使わない⽂字盤!?〜エアーフリック式⽂字盤〜」)に詳しく書いていますのでご参照ください。ここからは上記のコラムを読んでいただいたことを前提として書いていきます。●エアーフリック式文字盤私が使っているエアーフリック式⽂字盤について、「ALS当事者は文字の配置を覚えられるのですが、介助者が覚えて使いこなすのが⼤変です」との声を何件かいただきました。そこで、文字盤を使っていく上でのポイントを紹介します。また、実際に私が会話している解説動画を作りましたのでこちらも参考にしてください。 ▼ALS_エアーフリック式文字盤https://youtu.be/-qwhvTesF4I?si=CwubuZ04OB6rcylV ※リンク先はYouTube(外部サイト)となります。 動画について:分かりやすいように目の動きをスローモーションにして編集しています。実際にはもっと速く動きます。(「さくらクリニック練馬」が動画編集に協力してくれました) ALS当事者は、毎⽇繰り返し使っていきますし、⾃分のQOLを上げることにもつながるため、わりと皆さん文字盤を覚えられます。⼤事なポイントは、「介助者は無理して⽂字盤を覚える必要はありません!」ということです。 図1は実際の私の部屋を撮影した写真です。私の後ろの壁には、介助者⽤の⽂字盤が常に貼ってありますので、介助者は文字の配置を覚えていなくても、それを⾒ながら読み取ることができます。 図1 介助用文字盤の配置 さらに余裕が出てきたら、各行の頭文字が並ぶ9マスの位置だけでも覚えることで、会話のスピードが格段に上がります。ぜひチャレンジしてみてください。参考までに、私の介助者の中には、右の列を「あたま(頭)」、左の列を「さはら(サハラ砂漠)」と覚えている⼈も多くいます。 デジタルな方法:目の動きでタブレットを操作しよう! ⼿を使ってタブレットやパソコンなどが操作できなくなったら、⼀番スムーズに動かせる目の動きを活⽤することが多くあります。 視線⼊⼒を使った⽅法については、第1弾コラムの13回目(>>「ALS患者に必要な情報「実用編」 ~上肢②コミュニケーションツール~」)をご覧ください。 ここからは、上記のコラムを読んでいただいていることを前提に書いていきます。なお、そのコラムを執筆したのは2022年ですが、それ以降、画期的な出来事が起こりました! なんと、2024年に視線⼊⼒を使った操作が「iPad Pro」に標準機能として搭載されたのです!!▼Apple、視線トラッキング、ミュージックの触覚、ボーカルショートカットなどの新しいアクセシビリティ機能を発表(プレスリリース 2024年5月15日)https://www.apple.com/jp/newsroom/2024/05/apple-announces-new-accessibility-features-including-eye-tracking ほとんどの⽅はピンとこないと思いますが、これまでALS患者やその関係者は、「なんとか視線を使ってタブレットやパソコンを動かせないか」と試⾏錯誤を繰り返してきました。そして、パソコンについては外部装置を接続することで操作を可能にしてきましたが、純正の機械ではないため、機能を最⼤限に活⽤するには難しい面がありました。 そのような中、Appleが⾝体障害者のために、「iPad Pro」に視線⼊⼒装置を標準搭載してくれたことで、その機能を⼗分に活⽤できるようになりました。これによりタブレットも視線の動きで操作できるようになり、利便性が大きく向上し、⾝体障害者の社会的活動の可能性が広がりました。 一番⾃由に動かせる目を活⽤することは、最初の「とっかかり」としてはスムーズかと思います。ただし、目は⽂字盤をはじめさまざまなことに使いますので、酷使するとどうしても疲労が溜まりやすくなります。 また、いくら「目は最後まで動かせる」といっても、私のように10年⽣きていると、徐々に目も動かしづらくなってくることもあります。(もちろん10年経っても変わらず目を⾃由に動かせる⽅もいらっしゃいますので、ALS当事者の⽅は必要以上に不安にならないでください。) このような理由からも、目を使った⽅法以外にもタブレットを操作できる手段を知っておいてほしいと思います。 ちなみに私は、疲労を分散させるために、用途に応じて操作方法を使い分けていました。例えば、⼤学で講義をする時は、目を使ってパソコンを操作し資料を作成し、医師として診療を⾏う時には、歯の噛む⼒を使って空圧センサーを押し、タブレットを操作していました(空圧センサーについても第1弾コラムの13回目に詳しく書いています)。 私は現在、目が⾃由に動かしにくくなってきたため、空圧センサーのみを使用しています。以下にセンサーに接続するセンサーチューブの作り方と、吸引カテーテル(口腔内の唾液を低圧持続吸引してくれるカテーテル)との連結方法をまとめたのでご覧ください。>>センサーチューブの作成方法と吸引カテーテルとの連結方法はこちらから ※リンク先は「さくらクリニック練馬」のWebサイト(外部サイト)となります。 この⽅法は、口周りに障害物が何もないことが前提となるため、NPPV※を装着している方には使用できません。一方、気管切開をしている⽅で、わずかでも噛む⼒が残っている⽅にとっては、⼝腔内の唾液を吸引しながらタブレットを操作できる、とてもよい⽅法だと思います。ぜひ参考にしてみてください。 ※NPPV:非侵襲的陽圧換気。気管切開を行わないで、マスクを着用するだけの人工呼吸器。 ちなみに、私がNPPVをやめて気管切開を決断した理由の1つには、目と⻭以外に⾃由に動かせる場所がなくなり、早くこの⽅法を試してみたかったということもあります。 実際に私が⻭の動きでiPadを操作している動画も載せておきます。よく⾒ないと分からないですが、2mmくらい⻭が動かせれば操作できます。 ▼ALS_空圧スイッチを使ったiPadの操作方法https://youtu.be/EgM5bV9HIxs?si=BErItzSlxNqOKwfV ※リンク先はYouTube(外部サイト)となります。 この動画の撮影と編集は、私の息⼦が⼿伝ってくれました。息⼦よ、いつもありがとう!! 衣類を工夫し尿器で排泄:がまんできる力を活かす 四肢や体幹が動かせなくなると、「ベッド上でおむつで排泄しないといけない」と思っている⼈も多いかもしれませんが、ALSでは膀胱直腸障害は起こりにくいため、排泄をがまんすることができます(もちろん⼀般論であり、個⼈差があります)。⼯夫次第ではポータブルトイレや尿器を使って排泄できます。 ポータブルトイレでの排泄⽅法は、第1弾コラムの 18回目(>>「ALS患者に必要な情報「実用編」 ~下肢(2)ベッド上生活~」)に詳しく書いてますので、ご参照ください。 尿器を使用したベッド上での排尿の工夫として、これは男性の場合に限りますが、ズボンの前面を切り、スナップボタンを取り付けることで、ズボンを脱がずに陰茎を出して尿器をセットする方法があります。 ちなみに私は、尿器をセットしやすくするために下着は履かず、加工したズボンを直接履き、毎⽇⼊浴後に着替えています(⼊浴⽅法についても、18回目のコラムをご参照ください)。 実際に加⼯した私のズボンは図2をご覧ください。図2 加工したズボン(男性用) 「感じる力」を大切に:感覚が残ることを活かす ⾒たり聴いたり、味覚を感じたり……五感をフルに活⽤して、⽇々の⽣活をより豊かにしていきましょう! 上述した⽅法でタブレットを⾃分で操作できるようになれば、世界は格段に広がります。自分の好きなタイミングで読書をしたり、ドラマや映画を観たり、好きな⾳楽を聴いたりすることができます。 また、気管切開をして⼈⼯呼吸器を装着していても、誤嚥防⽌術さえ行っていれば、⼯夫次第で⽐較的⻑い期間、飲⾷を楽しむこともできます(もちろん個⼈差はあります)。誤嚥防止術の詳細については第1弾コラムの16回目(>>「「気管切開+誤嚥防止術」という考えかた!」)を参照してください。 * * * このように「できなくなっていくこと」ではなく、「何が最後までできるのか」に焦点を当ててALSという病気と向き合ってみると、⾒えてくる世界がまったく違ってきます。ALSという病気は、⼈間の可能性についてあらためて考えさせられる病気だなぁと、つくづく思う次第です。  コラム執筆者:医師 梶浦 智嗣「さくらクリニック」皮膚科医。「Dermado(デルマド)」(マルホ株式会社)にて「ALSを発症した皮膚科医師の、患者さんの診かた」を連載。また、「ヒポクラ」にて全科横断コンサルトドクターとしても活躍。編集:株式会社照林社

分かりやすい! ALSの最新治療~痛くない筋肉注射の方法~
分かりやすい! ALSの最新治療~痛くない筋肉注射の方法~
コラム
2025年7月29日
2025年7月29日

分かりやすい! ALSの最新治療~痛くない筋肉注射の方法~

ALSを発症して10年、現役医師・梶浦先生によるコラム連載、第2弾。今回は、ALSの最新治療法について解説します。エダラボンの内服薬や高用量のメコバラミンなど患者のQOLを高める治療の最前線をお伝えします。 ALSの疫学と原因について 日本におけるALSの患者数は1万人弱で、10万人あたり7〜11人程度の有病率とされています。男女比は1.3〜1.5:1で、やや男性に多い傾向にあります。 ALS患者の約90%は孤発性(家族歴がない)ですが、残りの約10%は家族内で発症することが知られており、家族性ALSとも呼ばれています。家族性ALSの原因となる遺伝子変異はこれまで30種類以上見つかっており、日本ではSOD1という遺伝子に変異があるパターンが最も多く、遺伝子変異の中の約20%(ALS全体の約2%)を占めます1)。 好発年齢は50〜70歳くらいですが、まれに若い年代で発症することもあります。私のように30代以下で発症するケースは全体のわずか約10%です。前回のコラム(>>分かりやすい!  ALSの診断方法〜二転三転した私の病名〜)で書きましたが、若年発症例は珍しいからこそ、さまざまな疾患の可能性が考えられ、結果として診断が遅れることもあるのです。 発症のメカニズムも徐々に分かってきています。運動ニューロンの中にTDP-43という異常タンパク質が蓄積し、それが細胞死を引き起こすと考えられています2)。「なぜTDP-43が蓄積するのか」「どうすればそれを除去できるのか」といった疑問が解明されれば、根本的な治療につながるのですが、その実現にはまだ時間がかかりそうです。そのため現在は、運動ニューロンの保護を目的とした対症療法が主な治療法となっています。 ALSの平均余命 一般的に、人工呼吸器を使用しないALS患者の平均余命はおよそ2〜5年とされています。その一方で、胃瘻による栄養管理を行いながら、人工呼吸器を装着する場合、生存期間の中央値は20年ともいわれています。(>>ALSの平均寿命が2〜5年なんて嘘だ!) しかしながら、この過酷な病気とともに生きていく人は少なく、気管切開を行い人工呼吸器を導入する人は、全体の20〜30%程度に過ぎません。 ALS治療の大きな柱:「栄養療法」と「薬物療法」 栄養療法について ALS患者は、病初期から著しく体重減少を起こすことがあります。体重減少の原因には以下のとおりさまざまなものがあります。 ALS特有の病初期~中期にかけての異常な代謝亢進(人工呼吸器を装着するまで) 病気の進行に伴う全身の筋肉量の減少 嚥下機能の低下に伴う食事摂取量の減少 呼吸機能の低下に伴う努力性呼吸*によるエネルギー消費量の増加  *努力性呼吸:自然に呼吸ができないため、一所懸命に呼吸をすること。   「ALSを発症した当初から体重を落とした群」と「体重を落とさなかった群」を比較した研究によると、後者の群のほうが人工呼吸器の装着までに要した期間が長く、QOLが低下する速度もゆるやかであったと報告されています3),4)。このことから、食事と合わせた高カロリー療法が進行を遅らせる効果があるとされています。 一方、発症後期(人工呼吸器装着後)は代謝量の減少に伴い、必要なカロリーも減少します。そのため徐々に摂取カロリーも減らす必要があります。ちなみに、今の私の摂取カロリーは1日900kcalです。 薬物療法について 日本では長年、「リルゾール」と「エダラボン」の2剤が治療薬として認可されていました。詳しくは「ALSの治療法について〜栄養療法がとても大切!〜」をご参照ください。ここからは「enjoy!ALS」第1弾の連載を終了してからの2年間で新しく変わった治療について解説していきます。 【ALS最新治療】エダラボンの内服薬が登場! 1つ目は、エダラボンが点滴から内服に変わったことです。これはALS患者にとって非常にうれしい進展でした。2週間ごとに点滴を留置するわずらわしさから解放されたことで、QOLが大きく向上しました。 【ALS最新治療】第3の治療薬、高用量メコバラミンが承認! 2つ目は、高用量のメコバラミンが、2024年9月に世界に先駆けて日本で初めて承認されたことです。 メコバラミンは、高用量ビタミンB12の筋肉注射製剤です。ビタミンB12は昔から神経保護作用があることが知られており、500μgの錠剤が末梢神経障害の治療薬として広く医療現場で使用されてきました。1990年代より、厚生労働省の研究班による臨床研究において、従来の承認用量の50~100倍量にあたる高用量メコバラミンが、ALSに対して臨床効果を示す可能性が示唆されました。これを受け、2006年から数百人規模の患者を対象とした臨床試験を経て、病初期のALS患者において進行スピードがゆるやかになったことが確認されたため、今回ついに承認されることになりました。 なぜ内服ではなく「筋肉注射」なのか? では、なぜリルゾールやエダラボンのように内服製剤にならず、筋肉注射という痛みを伴う投与方法になったのでしょうか。 ビタミンB12はさまざまな食品に含まれる水溶性ビタミンです。口から入ってきたビタミンB12は、胃から分泌された「内因子」というタンパク質と結合し、小腸の末端である回腸から吸収され、血中に運ばれます。 図1に示したとおり、従来の用量である500μg程度の量であれば、ビタミンB12は内因子と結合することができます。しかし、高用量メコバラミンはその100倍にあたる50mgものビタミンB12が含有されているため、経口投与ではほとんどが内因子と結合せず、便として排泄されてしまいます。こうした理由から、内服よりも比較的緩徐に血中に運ばれる筋肉注射による投与方法が選ばれたのです。図1 なぜ高用量メコバラミンは筋肉注射なのか 高用量のビタミンB12は内服では吸収しきれません。そのため筋肉注射が必要なのです。   高用量メコバラミンは週2回のペースで筋肉注射を継続していく治療です。なるべく痛みを軽減できるように、投与していきましょう。 筋肉注射では、痛みを感じるポイントが3つあります。 1.注射針が皮膚に刺さるときの痛み 2.薬液が筋肉内を押し広げながら注入されるときの痛み 3.薬液と人体のpH(酸・塩基成分の割合)や浸透圧の違いによる痛み これらの痛みを軽減するための工夫をご紹介します(図2)。 極力細い針を使用する 注射針は数字によって太さが分かれており、数字が大きいほど細い針になります。一般的に採血や点滴などで使用する針は22Gや23Gの太さですが、私は27Gというかなり細い針を使用しています。 それでも痛い場合は、針を刺す部分の皮膚を保冷剤などで冷やして感覚を鈍らせてから注射するとよいかと思います。 なるべくゆっくり注入する なるべくゆっくりと薬液を注入していくことで痛みを和らげられます。 高用量メコバラミンはそもそも痛みが出にくい 薬液の成分によりますが、高用量メコバラミンは薬液のpHや浸透圧が人体に近いため、比較的痛みは少ないです。 図2 筋肉注射の痛みを和らげる工夫 高用量メコバラミンはpH・浸透圧の差が小さいため、薬液自体の刺激が少ない。これらのポイントを意識していただけるだけで、痛みに対する不安がだいぶ和らぐと思います。ぜひ参考にしてみてください。 【ALS最新治療】トフェルセンの登場! 遺伝子治療への第一歩 3つ目は、2024年12月に、疫学のところで述べたSOD1という遺伝的原因を標的とする治療薬「トフェルセン」が日本でも承認されたことです。ちなみに、米国では2023年に迅速承認されています。 SOD1に変異をもつALS患者では、有害なタンパク質が運動ニューロンの変性を発現させ、進行性の筋力の低下や機能の喪失を招きます5)。トフェルセンは根治的治療薬ではないものの、ALSの進行スピードを遅らせる効果が認められています。遺伝子にアプローチする初めての薬剤であることから、今後のALS治療に大きな期待がもてます。わずか2年の間に、ALSの治療はこんなにも進歩しています。これらの事実は、ALS患者の皆さんにとって大きな希望になることでしょう!   コラム執筆者:医師 梶浦 智嗣「さくらクリニック」皮膚科医。「Dermado(デルマド)」(マルホ株式会社)にて「ALSを発症した皮膚科医師の、患者さんの診かた」を連載。また、「ヒポクラ」にて全科横断コンサルトドクターとしても活躍。編集:株式会社照林社 【引用文献】1)Nakamura R,Sone J,Atsuta N,et al:Next-generation sequencing of 28 ALS-related genes in a Japanese ALS cohort.Neurobiol Aging 2016;39(219):e1-8.2)葛原茂樹:ALS研究の最近の進歩:ALSとTDP-43.臨神経 2008;48(9):625-633.3)Shimizu T,Nakayama Y,Matsuda C,et al:Prognostic significance of body weight variation after diagnosis in ALS:a single-centre prospective cohort study.J Neurol 2019;266(6):1412-1420.4)Nakayama Y,Shimizu T,Matsuda C,et al:Body weight variation predicts disease progression after invasive ventilation in amyotrophic lateral sclerosis.Sci Rep 2019;9(1):12262.5)Akçimen F,Lopez ER,Landers JE,et al:Amyotrophic lateral sclerosis: translating genetic discoveries into therapies.Nat Rev Genet 2023;24(9):642-658. 【参考文献】○筋萎縮性側索硬化症診療ガイドライン作成委員会編,日本神経学会監修:筋萎縮性側索硬化症(ALS)診療ガイドライン2023.南江堂,東京,2023.

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