G07_意思決定支援を考える

インタビュー
2021年10月19日
2021年10月19日

『自分なりのこだわりを貫きたい』という思いに寄り添い、支えた38日間

数々のお看取りに寄り添ってきた望月さんが出会った印象的な方々。後編は、末期がんで在宅に戻り状態が厳しくなっても、自分なりの在り方・こだわりを貫こうとしたBさんの支援について語っていただきました。 自分のことは自分で 【患者Bさん】60歳男性。膵尾部がん末期、肝臓・骨への転移あり。化学療法を受けていた大学病院のソーシャルワーカーの勧めで、訪問看護を利用開始。2020年9月3日から10月10日まで担当。 初回訪問の時、すでにBさんは瘦せて腹水がたまり、厳しい様相でした。病院から勧められての訪問看護開始だったこともあり、Bさんは「別に必要ないから」という口ぶりでした。 すでに食べられない状態だったBさんは、「食べないと体力がつかないから」と、化学療法のために造設されていたポートからの高カロリー輸液を希望されました。訪問看護では、輸液の管理などを行うことになりました。 Bさんは、「とにかく自分のことは自分で」という人でした。訪問医が腹水を抜いたら5リットルも出るような状態だったのに、「お風呂も自分で入るから清潔ケアは必要ない」と言うのです。 一般的に、在宅療養する男性は、奥様に頼り切りになりがちです。ですが、Bさんは奥様にも手を出させないようで、初回訪問の時、奥様はひと言も発しませんでした。 高カロリー輸液も、自分で動けるよう点滴ポールではなく、携帯用バッグを使うことを希望されました。それも、看護師が用意した後に自分で確認して入れ直すなど、几帳面な人でした。 『這ってでもトイレに行く』という強い意志 高カロリー輸液を入れれば、どうしても腹水は増えるので、Bさんは苦しかったと思います。それに、間もなく消化管が閉塞して、イレウス症状が出てきたことも厳しい状況でした。消化液がたまると吐き気を催しますが、Bさんはとにかく寝床では吐きたくなかったのでしょう、輸液のバッグを持って、トイレに駆け込み、吐いていました。 どう見ても、Bさんにはサポートが必要な状態でした。しかしBさんは、サポートは受けたくない、ポータブルトイレを置くのも嫌、自分で這ってでもトイレに行こうとする人でした。訪問看護は1日おき、ないし連日訪問していましたが、最後まで訪問介護は利用しませんでした。 状態の厳しさを、Bさん自身もわかっていたと思います。しかし、それは決して口にされません。どうしたいのかを私たちに訴えてくることもありませんでした。Bさんは、看護師に必要な情報を尋ね、それを受け止めるというスタイルの人でした。 入院と再度の在宅療養 嘔吐症状はその後もどうにもならず、Bさんの希望で2020年9月21日に一度入院しています。そのときも、Bさんは「病院に行けば、どこで吐こうがスタッフにケアしてもらえるから」という言い方をされていました。救急車で行くように伝えたのですが、結局、ご自分でタクシーを拾って乗り込み、途中でドアを開けて吐いて、病院まで行ったようです。 このとき私たちは、「もう在宅療養に戻るのは無理かもしれない」と覚悟をしていました。しかしBさんは、10月2日に退院してきたのです。在宅でも一度イレウス管を試していて、入院中も試したが不快で苦しい、病院にいたところで状況は変わらない、ということに納得されたからでした。 Bさんは、それまでいつも病状説明を一人で聞いていました。しかしこのときは、奥様も一緒に話を聞き、そして、家に帰ることを決めて戻ってきました。痛みが強くなり、麻薬性鎮痛薬を使いはじめ、退院後は1日2回訪問するようになりました。 イレウスがある人は、本当に気の毒なのですが、嘔吐症状がとても強いのです。 Bさんは、家に戻ってからは、トイレに行かず、好きなときに好きなように吐く、と決めたのだと思います。それまで布団を敷いていた部屋に、「入れたくない」と言っていたベッドを入れて、ケアシーツをいっぱい敷きました。そして、飲みたいものを飲み、吐きたいときに吐く。Bさんのその決断に合わせて、奥様も下着をたくさん用意していました。体を起こしての着替えも大変になってきたので、下着が汚れたら切って脱がせて捨てるようになりました。 何回か緊急訪問もあって、亡くなる2日前の訪問で、奥様がこんなことを話してくれました。 「最初は何も手を出せない状態で、本人の好きにさせるしかありませんでした。でも、退院を機に、坐薬を入れたり、本人が欲しいものを飲ませたり、体をさすったり、着替えさせたりできるようになって。まとまった睡眠がとれないですけど、自分の手を出せるようになり、介護できて、何だか楽しくなってきました。」 もともと関係が悪いご夫婦ではなかったのです。私たちは再度の在宅療養はないかもしれないと思っていましたが、奥様は「絶対帰る」と思っておられたそうです。退院して、本人の鎧がようやく取れたのかなと思いました。 最後は、奥様から、「起きたときには心臓が止まっていました」と連絡をいただきました。「次に起きたら亡くなっているかも、と思ったが寝ました」とおっしゃっていました。奥様も覚悟の決まった人でした。 「訪問看護ノー」と言われず、最期まで寄り添えるように Bさんに対して、訪問をはじめたころ、提案を色々していました。たとえば、「息も絶え絶えになりながらシャワーを浴びなくても、清潔ケアをお手伝いできますよ」などです。しかし、答えはいつも「ノー」でした。 けれど、訪問看護はそれでいいと思うのです。 病院から家に帰れば、みなさん、自分のやり方・自分の好みを大切にする。それが当たり前です。体に影響があることであれば、タイミングをみて、より安全な方法を伝えていくことも考えますが、それもケースバイケースです。 患者を受け入れる病院とは違い、支援するこちらがご家庭を訪問し、ケアを受け入れていただくのが訪問看護です。頭ごなしに指導する・正しいやりかたを押しつけるようでは、訪問看護自体を「ノー」と言われてしまう可能性もあります。 最期まで介護者をサポートしながら寄り添うために、ご本人・ご家族が主体の療養生活を支えていくのが、訪問看護の役割だと思っています。 ※掲載の内容については、ご本人とご家族の了承を得て掲載させていただいております。 ** 望月葉子白十字訪問看護ステーション看護師 記事編集:株式会社メディカ出版

インタビュー
2021年10月12日
2021年10月12日

本人の強い意志をチーム力で支える

ベテラン訪問看護師の望月葉子さんが出会った、印象深い意思決定支援のケースを前後編で紹介します。前編は、重度の障害のある人に対する現在進行形の支援について語っていただきました。 東京のICU病室から博多でのコンサートへ 「意思決定支援」というテーマをいただいたとき、まず思い浮かべたのが10年のお付き合いになるAさんです。「こうしたい」という強い意思を持ち、周りを巻き込んでそれを実現していける人だからです。 【患者Aさん】 現在63歳、アテトーゼ型脳性麻痺の女性。車いす使用。望月さんが担当するようになったのは2010年、Aさんが53歳の時から。当時、直腸膀胱障害があり、すぐに尿道カテーテルを留置。その後、気管切開、胃瘻造設、乳がん手術などを経て、今も94歳の母親と二人で在宅生活を継続している。 Aさんへのこれまでの支援で最も大きなエピソードは、2014年10月、Aさんが交流のある演歌歌手のコンサートに招待され、病院のICUを自主退院して東京から博多に行ったことです。 そのころのAさんはすでに嚥下状態が悪くなり、この年の2月には誤嚥性肺炎で入院していました。博多に行きたいと言われたとき、私は最初、本気とは思っていませんでした。でもAさんは本気でした。それでケアチームの会議を招集し、本当に博多に行けるかを検討しました。 Aさんの強い思いに、相談支援専門員(障害分野のケアマネジャー)が寄り添ってくれたことで、ケアチーム全員が実現の方向に動けたように思います。お母様も博多行きにかかる費用はすべて出すと言いました。在宅医も、万一のことが起こる覚悟を本人とお母様に確認したうえで、診療情報提供書を用意してくれました。 そうしてコンサートの半年ほど前から、ヘルパーや自費の看護師、現地でケアを引き継いでくれる看護師、携帯用の酸素などを手配し、博多行きの準備をしていました。ところがコンサートの直前、Aさんは誤嚥性肺炎で呼吸不全になり、救急搬送されてしまったのです。しかも入院中に痰が詰まって、一時は心肺停止状態に。 常識だったら「これではコンサートは行けないね」となりますよね。でも、Aさんは「どうしても行きたい」と諦めなかったのです。退院は認めないという病院と交渉し、結局Aさんは、「急変したとしても再入院は求めません」という約束をして、自主退院することになりました。 私は病院から東京駅まで車に同乗し、Aさんを自費の看護師に引き継いで新幹線に乗車させました。そしてヘルパーが合流し、何とか博多まで行き、Aさんはコンサートを楽しむことができたのです。 選択の数々 博多から帰ってきてまたすぐに、Aさんは呼吸不全になって救急搬送されました。「呼吸筋力の低下で、自力での痰の喀出は困難、経口摂取はもう無理」という医師の診断でした。Aさんも納得の上、気管切開を受けました。 その後は、胃瘻にするかどうするかの選択を迫られました。在宅でケアにあたっているお母様もこれには悩みました。お母様は当時80代後半です。在宅医や私たち訪問看護師にたびたび電話をしてきていました。 Aさん自身はとにかく生きる意欲が旺盛なので、胃瘻云々ではなく、「とにかく家に帰りたい」と訴えていました。 Aさんは気管切開で声を失っていますから、介護者が読み上げる50音に舌で合図を出して意思を伝える方法をとっています。いつもの介護者とお母様は、このコミュニケーションに慣れていますが、病院ではそうはいきません。体を動かせないAさんには、ナースコールを押すこともできません。 しかし家に帰れば、意思疎通ができるヘルパーさんが24時間いてくれるのです。結局、Aさんは胃瘻を造設して自宅に戻りました。 この後、Aさん自身もお母様も、がんの手術を受けています。でも、それらの出来事もケアチームで支え、乗り越えて、現在に至ります。胃瘻から栄養注入しながら、チョコレートや、お母様手作りのゼリーを口から召し上がっています。 いいゴールはケアチームみんなで考えたい Aさんとこれほど長いお付き合いになるとは思っていませんでした。長い期間その人の人生に寄り添っていけることは、訪問看護の醍醐味です。とても幸せなことですね。今、Aさんの自宅へは週2回の訪問で、入浴介助、摘便、服薬管理、尿道カテーテル交換などをしています。 Aさんの博多行きを経験したことなどもあって、10年の間にケアチームとしての成長を感じています。チームメンバーは入れ替わりもありますが、定期的に行政メンバーも交えてケアチーム会議をしていることもあり、Aさんの意思はみなよく分かっています。 これから起こりうる大きなエピソードとして考えられるのは、おそらくお母様に何かあったときでしょう。そのときどう対応するかについて、ケアチームで話題に上っています。しかし、施設を探すといった話はまったく出ていません。Aさんは「このまま在宅で生活する」と言うだろうと、みな思っているからです。 Aさんは、状態の悪化を嘆いて悲観的になることはありません。もちろん、感情の波はありますが、怒るエネルギーは衰えません。いろいろな難題を突き付けてくる人ですが、意思がはっきりしている分、支援の方向性は決めやすいのです。どこが本当に良いゴールなのか、今はまだわかりませんが、それはチームみなで考えていけると思っています。 ※掲載の内容については、ご本人とご家族の了承を得て掲載させていただいております。 ** 望月葉子白十字訪問看護ステーション看護師 記事編集:株式会社メディカ出版

インタビュー
2021年10月5日
2021年10月5日

意思決定支援とは誰のため? 何のため? 「ややのいえ」の取り組みから考える

さまざまな人々が集い、出会い、語らう場として、看護から看取りまで「地域まるごとケア」を行う「ややのいえ」を運営する榊原千秋さん。今回は、「ややのいえ」の大切な理念とその実践、そこで出会ったある男性の最期について語っていただきました。 地域をまるごとケアする 「ややのいえ」の四つの理念 「ややのいえ」には、高齢者を中心とした出会いの場「ことぶきカフェ」、医療や介護相談「暮らしの保健室」、排泄の総合相談「おまかせうんチッチ」、産院+親子サポートを行う「ちひろ助産院」、訪問看護ステーションなど、さまざまな機能があります。住民は、「ややのいえ」とつながることで、新たな出会いやつながりが生まれます。ここは0歳から100歳を超える方々の「地域まるごとケア」の拠点であり、自分なりのありかた、生きかたを見つけていく「居場所」となっているのです。 「ややのいえ」には四つの理念があります。それは、前回お話しした義母のことも含め、私が三十余年、地域で出会った人たちから教えてもらったことがベースになっています。 一つめは、「とことん当事者」ということ。訪問看護でも、「今、いちばんしたいことは何?」と、家族ではなく本人の願いを聞きます。「星空が見たい」「猫と遊びたい」「お化粧をしたい」「『おしん』を最初から最後まで見たい」など、いろいろな望みが出てきます。願いを聞いたら、なぜそれを望むのかもたずねます。言葉にした「願い」だけではなく、「なぜそれを望むのか」が大事な場合もあるからです。それに、「なぜ」を聞くと、私たちもそれを実現したくなりますからね。 本当の願いがわかったら、ときにはチームを作り、それを実現します。そのプロセスが、「ややのいえ」のACP(アドバンス・ケア・プランニング)であり、意思決定支援の取り組みなのです。 大切にしていることの二つめは、専門職として出会う前に「人として出会う」こと。専門職として病気のこともきちんと診るけれど、最初にその人がいちばん大事にしているものを見る。気付く。そこから人と人としての関係を作っていくのです。 三つめに、「自分ごととして考える」。相手を人として知り、願いを知り、その願いへの思いを知る。そしてその願いをひとごとではなく、自分ごととして考えるのです。 一人の人を支えるには、医療職や介護職、制度だけでなく、いろいろな仲間の力が必要です。「ややのいえ」には文房具屋さんや不動産屋さんなど、地域のさまざまな仲間がいます。本人の願いをかなえるために必要なら、そうした仲間たちとチームを作ります。こうした、専門職だけでない支援、本人を取り巻く多くの人たちが一体となる「十位一体のネットワーク」の力が「ややのいえ」の理念の四つめであり、意思決定支援につながるものです。 ナラティブに出会い エビデンス的に人を看る 「ややのいえ」の訪問看護では、初回訪問から「ナラティブ」でその人と出会います。壁に表彰状がかかっていたら、「すごい、○○で賞を取ったんですか?」と聞いてみる。その人が大事にしていることを知ろうという目線で接していくのです。そうした目線は、「ややのいえ」として、「聞き書き」にずっと取り組んできた文化が影響していると思います。「エビデンス」的に人を看ながら、同時に、「ナラティブ」でも人を見る。そんな姿勢がスタッフに身についています。だから、専門職として出会う前に人として出会うことができるのです。 「聞き書き」は何も、構えて相手の話を聞き、書き留めるだけではありません。「あんたらの魂胆に乗せられてやるか」とか、「あーあ、俺はもうすぐ死ぬのか」とか、訪問したときに、ふと漏らした、その人らしいちょっとした独特な言葉があったとき、それをカルテに書き留めます。そんな「ひと言聞き書き」が、意思決定支援につながるACPの一部なのです。 それは、きちんと相手と向き合っているから、拾い上げることができる言葉です。「今日の血圧は」「足がむくんでいますね」と、体だけを看るかかわりだけでは、聞き逃してしまうかもしれません。 満足と幸せが残る意思決定支援とは 末期がんで在宅療養していたAさんは、あれこれ気遣われるのが煩わしく、心配する奥さんをも怒鳴りつける人でした。本人はまだ3~4年は生きられると思っていたのですが、いよいよ状態が厳しくなってきたとき、訪問看護師に「わしはどうなっていくのか」と聞いてきました。 そのとき訪問看護師は、「もともと生まれてきたところに帰って行くのですよ」と答えました。するとAさんはにこっと笑って、「母ちゃんを呼んでくれ。そして二人にしてくれ」と言いました。看護師が退出後、Aさんは奥さんの手を握り、二人でしかできない話をしたのだそうです。Aさんは、その日の深夜3時に亡くなりました。 Aさんが亡くなったあと、私たちはお通夜とお葬式に同席させていただき、ご親族と空気感を共有しました。グリーフケアですね。その後、四十九日までに弔問に訪れると、「あの時逝くとは思っていなかった。あの時間があってよかったよ」と奥さんはとてもいいお顔をされていました。 亡くなることを「旅立つ」という言葉で表現することがありますが、浄土真宗のさかんな北陸では「お浄土に帰る」と言います。看護師の「もともと生まれてきたところに帰って行くのですよ」という言葉は、Aさんの心に自然に受け止められたのだと思います。 意思決定支援はひとつの地域文化でもあると思います。同じ地域で暮らしているからこそ共有できるのだと。そして意思決定支援は、本人が亡くなられたあとのグリーフ期に真実が語られることがよくあります。はじめて出会ってからグリーフケアまで、本人にもご家族にも、ほがらかで穏やかな時間が持てますようにと願っています。   ** 榊原千秋コミュニティスペースややのいえ&とんとんひろば代表訪問看護ステーションややのいえ統括所長 記事編集:株式会社メディカ出版

インタビュー
2021年9月28日
2021年9月28日

介護者、看護師、そして三男の嫁として 亡き義母の「意思」に触れた日々

保健師として地域で活動後、難病患者の在宅療養者の支援を経験した榊原千秋さんは、地域でさまざまな人々が集い、出会い、語らう場として「ややのいえ」(石川県小松市)を開設。訪問看護ステーション、助産院なども併設しています。今回は、夫の母を介護した経験から、身内の「意思決定支援」で強く考えさせられた事例について語っていただきました。 認知症があっても自分で居場所を決めた義母 「意思決定支援」という言い方、実は私、好きじゃないんです。ひと言で言えるような単純なものではないですし、一方向から見た真実にしかならないと思うからです。また、本人が本当の意思を表明するとは限りません。 93歳の時に、転倒による腰椎圧迫骨折で入院して寝たきりになった義母も、私たち親族には本音を言いませんでした。でも、知人を連れてお見舞いに行ったとき、会話の中でポロリと「家に帰りたい」と言ったのです。これが義母のACP(アドバンス・ケア・プランニング)に取り組んでいく、大きなきっかけとなりました。 同居していた長男夫婦は、「家では看られない」と私に施設入所の相談がありました。長男夫婦に初孫が産まれたこともあり、ひとまず介護老人保健施設(老健)に移りました。その直後に長男の妻が交通事故で入院し、面会に行けなくなりました。そこで義母は、「自分は捨てられた」と思い、ストレスからガリガリに痩せてしまったのです。 地方都市では、今も、親の介護は長男の嫁がするもの、という考えかたが根強くあります。本来なら、三男の嫁である私は、義母の介護に対して発言権もありません。しかし老健に義母を見舞いに行った際、夫が「このままにしておいていいのか」と私に言ったのです。 そこで、「ややのいえ」について親戚中を説明してまわり、私が「ややのいえ」に義母を引き取り、ケアすることが了解されました。 「今したいことは何?」と聞くのが、私の考えるACPの始まりです。 「ややのいえ」をお試しで訪れた義母の答えは、「鳴門金時(さつまいもの品種)を植えたい」でした。畑にうねを作ると、痩せ細った姿で、植えかたを指導してくれました。 そうして何回か「ややのいえ」で過ごしてもらううち、義母は自分から「ここに置いてくれやの」と言いました。認知症があっても、義母はちゃんと自分で自分の身の置き所を決めたのです。 すごいな、と思いました。これで、私も「ややのいえ」でともに暮らしながら義母をみていく覚悟が決まりました。 「迷惑をかけるから」の言葉の裏にあった思い 「ややのいえ」で暮らすようになった義母に、「どうしたい?」と聞くと、返ってくる答えは決まって、「最期の日までほがらかに楽しくおらせてくれやの」でした。老健にいたころには出なかった言葉です。 義母の望みどおり、畑仕事をし、梅干を漬け、洗濯物をたたみ、繕い物をする。隣のかき氷屋のかき氷をペロリと一人前食べたり、晩御飯を食べたのを忘れて私と半分こしてどら焼きを食べたり、義母は「ややのいえ」で自由にのびのびと過ごしていました。 義母とは1年半、「ややのいえ」で暮らしました。それが中断したのは、私が腎臓結石の手術のために入院することになったからです。やむなく、義母にはショートステイへ。しかし、その2泊目、義母は急性出血性大腸炎で緊急入院しました。 3か月たっても義母は回復せず、“いわゆるACP”として、胃瘻にするか、高カロリー輸液のポートをつくるかを聞かれました。 ショートステイ入所前日まで、お寿司をペロリと食べていた義母です。VF(嚥下造影検査)をしてもらうと、回復の見込みはあると言われました。 それなら、一時的に胃瘻を造設して栄養を確保し、嚥下のリハビリをお願いしようと考えました。 退院の時期が来たとき、胃瘻になり、痩せこけた義母に聞きました。「『ややのいえ』に戻らない? 帰ろうよ」と。すると義母は、「千秋さんに迷惑をかけるから行けない」と言うのです。 「迷惑をかける」とは、三男の嫁である私が再び義母をみることになったら、兄弟間で“もめる”、という意味で言っているのだと、私にはわかりました。認知症があっても、義母はちゃんと状況を理解していたし、家族のことを考えていたのです。 結局、義母は療養型病院に転院し、そこで亡くなりました。 「意思決定」のとらえかたは 立場によってさまざま 義母のお通夜の席で、米寿祝いの時作った義母のライフヒストリーを聞き書きでつづった冊子とアルバムとともに思い出が語られました。皆、それを見ながら話しているのに、義母が「ややのいえ」で過ごした日々のことは、まったく話題に上りませんでした。長男夫婦は私が義母の介護をすることをよしとせず、施設への入所を望んでいたこともあったからだと思われます。 一方、義母方の親族が言った「母は幸せやったよ」の一言には救われました。それぞれの立場や考えによって、本人の「意思決定」を取り巻く事実のとらえかたはまるで違うのです。 専門職として数多くの看取りにかかわってきた私ですら、「ややのいえ」での義母との1年を親族に語れない状況や、その時の感情は、今も大きなトラウマとなっています。 このように「意思決定支援」にかかわる当事者は多岐にわたり、その登場人物ごとに真実があります。支援者は、まずそのことを十分に認識しておく必要があると思います。 ** 榊原千秋 コミュニティスペースややのいえ&とんとんひろば代表 訪問看護ステーションややのいえ統括所長 編集協力:株式会社メディカ出版

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