コラム

positiveに生きよう! 〜ALSと診断されてからの経過と心の葛藤〜

ALSを発症して6年、40歳の現役医師である梶浦さんによるコラム連載。第2回は、診断前後の日々と葛藤の様子をお話しします。「enjoy!ALS」と思えるまでの心の動きは……

「今の自分にできることを考えていこう!」

私は体も動かないし、声も出せないが、内面は何も変わっていない。
できなくなったことも多いし、大変なことも多いが、できることも、まだまだたくさんある。
できなくなったことを悔やむのではなく、今の自分にできることだけを考えて、生きていこう!

ALSと診断されてから、すぐにそう考えられたわけではありません。そこまでには、さまざまな苦悩や葛藤がありました。

ALSという病気は、今まで培ってきたキャリアや地位やプライドがひっくり返されて、まったく違う人生を歩んでいかないといけない病気です。
そこで、まず私がALSと診断されてから在宅加療を開始するまでの、経過と心の葛藤についてお話ししたいと思います。

留学先で、「何かおかしい!?」

前回もお話ししましたが、私は大学病院で皮膚科医として勤務しながら、「毛包幹細胞」について研究をしていました。その研究のため、2015年の4月に、アメリカのUCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)に留学しました。

留学中は毎日趣味のサーフィンをしてから、職場に行く、充実した日々を過ごしていました。ところが、7月ごろから、少しずつ文字が書きづらくなってきたことに気が付きました。
当初は疲れているだけかと思い、さほど気にしていませんでしたが、8月になっても治らず、右腕が左腕よりも細いことに気が付きました。

さすがにおかしいと思い、自分の症状について調べはじめました。ちょうどサーフィンで首を痛めていたこともあり、同僚の整形外科医にも相談し、頸椎症や椎間板ヘルニアなどの可能性を考えMRIを撮りましたが、明らかな異常はありませんでした。するとUCSDの神経内科を紹介され、診察してもらうと、すぐにALS専門医に紹介されました。

何が何だか……

その時点で頭が真っ白になっていました。専門的な話を英語で説明され、さらに、何が何だかわかりませんでした。ただ、最後に「ALS専門医の貴方からみて、私はALSだと思いますか?」と聞くと、「多分ALSだろう」と言われたことだけは、はっきり覚えています。

その瞬間、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃が走りました。事態が飲み込めず、ただただ呆然としていました。徐々にその診断の重さを理解して、気がついたら帰り道で号泣していました。

当時、私は34歳でした。2歳になる息子もおり、これからのことを考えると、恐怖と絶望で胸が張り裂けそうでした。ただそんななか、妻だけは気丈に振る舞い、私を支えてくれたおかげで、何とか正気を保つことができました。

まだ診断が確定したわけではないため、急いで帰国して精査しました。その後、さまざまな病院で検査するも、なかなか確定診断がつきません。さまざまな診断名を言われ、そのたびに一喜一憂する日々が続き、精神的にかなり疲弊して行きました。

結局ALSと確定診断されたのは、症状が出現してから9か月後の、2016年4月でした。そのときには右腕以外にも症状が出現しており、ALSの診断に納得したのを覚えています。

ALSと確定してから

その後の日々は、今までとはまったく違うものでした。

すぐに仕事に復帰し、元どおりの生活を再開しましたが、右手が動かずカルテが書けなかったり、手術ができなくなったり、今まで当たり前のようにできていたことが、徐々にできなくなっていきました。
なぜこんなことになってしまったのか? 何かの間違いではないか? と、自問自答を繰り返す日々が続きました。
いくら考えても答えは出るはずもなく、考えれば考えるだけ気分が落ち込むだけでした。

時間があればいろいろ考えてしまいます。暇な時間を作らないように、一生懸命仕事をし、たくさん息子と遊び、映画を観て、ボーッとする時間をなくすようにしました。
そして遠い未来のことは考えすぎず、今の自分の状態でできることだけをやるようにしました。

どうしても、つらく悲しくなるときは、ため込まず思いっきり泣くようにしました。よく手嶌葵さんの『明日への手紙』を聴き「明日を描こうともがきながら、進んでいく」という歌詞に自分を投影して泣いたのを覚えています。

そうやって、ストレスをコントロールしながら徐々に病気を受け入れて、自分の症状と向き合っていきました。
何よりも妻が常にサポートしつづけ、息子がそばにいてくれたおかげで、前向きにやってこられました。

限界まで現場に出たい

私は医師という仕事が大好きです。限界まで、現場で働いて、直接患者さんを診療したいと思いました。

パソコンのキーボードがうてなくなったら音声入力装置を使い、歩けなくなったら電動車いすで通勤し、何とか診療を続けることができました。最後は声が出しづらくなっていましたが、同僚が自分の手となり声となって、ペアで診療してくれました。

さすがに、最後は患者さんより自分のほうが明らかに重症で、患者さんたちに心配されてしまい、診療が滞ってしまったため、2019年3月に退職し、東京の実家に戻り在宅加療を開始しました。

次回は、在宅加療を開始してから今に至るまでの経過をお話ししたいと思います。

私の主治医であるさくらクリニック練馬の佐藤先生が、クリニックのブログ前回コラムの感想を載せてくれました。よかったらこちらもご覧ください。

**

コラム執筆者:医師 梶浦智嗣

記事編集:株式会社メディカ出版

この記事を閲覧した方にオススメ

× 会員登録する(無料) ログインはこちら