記事一覧

人工呼吸器装着後の安楽な姿勢とベッド周りの環境整備:当事者の知恵と工夫
人工呼吸器装着後の安楽な姿勢とベッド周りの環境整備:当事者の知恵と工夫
コラム
2026年6月9日
2026年6月9日

人工呼吸器装着後の安楽な姿勢とベッド周りの環境整備:当事者の知恵と工夫

ALSを発症して10年、現役医師・梶浦先生によるコラム連載、第2弾。最終回となる今回は、梶浦先生が受けてこられた質問の中で最も多かった人工呼吸器装着後の安楽な姿勢を保つ方法と、ベッド周りの環境整備のコツについてたっぷりご紹介いただきます。 本記事は、医療従事者の指導・管理のもとで行われている在宅医療の一例を紹介するものです。掲載されている医療機器の配置や使用方法を、一般の方が医療者の指示なく参考・模倣することは安全上のリスクがあります。在宅での医療機器管理については、必ず主治医や訪問看護師等の医療従事者にご相談ください。 はじめに ALS当事者や関係者の⽅々から最も多く寄せられた質問が、今回のタイトルです。 気管切開して⼈⼯呼吸器を付ける前のALS当事者にとって、装着後の⽣活がどのように変わるのかを想像することは難しいものです。人工呼吸器をつけても安楽に過ごせるのか。どのような環境整備が必要なのか。こうした情報は、人工呼吸器をつけて生きていくか否かの決断に大きく関わるにもかかわらず、調べてもなかなか出てきません。 私自身、これから⾃分がどうなっていくのかよく分からないながらも、死にたくない⼀⼼で、気管切開と人工呼吸器装着を決断しました。だからこそ、その後の生活で一番考えながら、改良を重ねてきたのもこのテーマだったのです。 ALSという病気は、症状も進行スピードも人によって違います。また、在宅療養環境(⽀援体制や⾃宅のスペースなど)もそれぞれの家庭で大きく異なります。⼀概に「こうしたほうがよい」とは⾔えず、教科書的に一括りにして扱うことが難しいのが実情です。 それゆえに、ALS当事者や関係者たちが、在宅での療養生活で実際に取り入れている知恵や工夫を持ち寄り、それを発信し、「いいな」と思った部分を⾃分の⽣活の中に取り⼊れていくしかないのだと思います。 そこで今回は、私が考えて、実践している⼯夫を紹介していきたいと思います。それぞれの状況に応じて参考にしていただければ幸いです。 安楽な姿勢の基本原則:接触面積を広くとる ⼈⼯呼吸器をつける前のALS患者を含む、重度の四肢体幹障害者に共通して重要なのは、 体と、⾞椅⼦・ベッドとの接触面積を広くとり、浮いている部分をできるだけなくす ということに尽きます。 これにより体圧が1ヵ所にかかり過ぎるのを防ぎ、分散することができ、身体への負担を最⼩限に抑えることができます。 座位での姿勢の工夫(図1) ⾞椅⼦に座るときやベッドの背もたれを起こしたときには、以下を意識します。 腰の部分が浮かないように、できるだけ深く座る 枕と⾸の間に隙間ができないよう、タオルや薄いクッションを丸めて入れる 図1 ベッド上での座位姿勢の工夫 側臥位での姿勢の工夫 クッションを活用し接触面積を広くとりつつ、足の骨同士が重ならないように気をつけています(図2)。 図2 側臥位での姿勢の工夫 ちなみに、私は毎晩、側臥位で寝ています。その際、空圧センサーにつま先を接地しておくようにし、ほんのわずかな⼒でもセンサーを押して、人を呼べるようにしています。センサーを押したら「反対側の側臥位へ体位変換してほしい」という合図です。 人工呼吸器をつけることで大きく変わること 人工呼吸器をつけると、気管孔と⼈⼯呼吸器が回路(ホース)で常につながるようになります。このホースが動いてしまうと、それが刺激になり、むせてしまったり、気管孔周囲に⾁芽組織*を形成する原因になったりします。そのため、ホースはできるだけ動かないように固定しておく必要があります。私がおすすめする固定⽅法は、胸元とベッドの2点で固定することです(図3)。 *肉芽組織:傷の治癒過程や慢性炎症の際に形成される、新しい結合組織と⽑細⾎管のこと。出血を伴うこともある。 図3 ホースの固定方法 ホースを胸元とベッドの2点で固定し、ホースができるだけ動かないように工夫している ホースの動きにさえ注意していれば、⼈⼯呼吸器をつける前と安楽な姿勢はあまり変わりません。私は人工呼吸器を装着したことで、呼吸苦から解放され、大きな安堵を感じました。 ベッド周りの環境整備と物品管理の工夫 ベッド周囲の環境は、部屋の広さやレイアウトによって変わる部分が⼤きいのですが、ここでは私が試⾏錯誤の末にたどり着いた「理想的な形」を書いていこうと思います。参考にしてみてください。 ベッド周りには⼈が⼊れるスペースを確保する 部屋を広く使うためにベッドを壁につけている⽅も少なからずいらっしゃいます。しかし、これは介助者にとっては、とてもやりにくい配置になります。 例えば、先述した側臥位の体位変換を左右均等に行うには、介助者がベッドの左右から行う必要があります。可能であれば、人が1人⼊れるくらいのスペースをどちらにも確保しておくことをおすすめします。 ■介護用電動ベッドとモーター数ちなみに、介護⽤電動ベッドはモーター数によって性能が変わります(表1)。モーター数が多いほど性能がよく、ALS患者のように介護度が高い場合、3モーター以上のモデルが推奨されます。 なお、要介護度によりますが、介護⽤電動ベッドは介護保険を利用してレンタルができます。 表1 電動ベッドのモーター数と機能 モーター数     機能           1モーター   背上げ(または脚上げとの連動)基本的な動作2モーター背上げ+脚上げ標準的な介護に対応3モーター背上げ+脚上げ+高さ高度な介護に対応。ベッドの高さが変えられるため、介護者の負担が軽減される4モーター以上背上げ+脚上げ+高さ+αベッド自体の傾斜が変更できる機能、立ち上がりサポート機能、体位変換機能など、さまざまな機能があり、より個々の細かいニーズに対応。 ベッド周りの物品は「厳選」し「コンパクトに配置」する ⼈⼯呼吸器を使用すると、人工呼吸器はもちろん、吸引器や排痰補助装置など、ベッドの周りに置いておく機器が増えます。限られたスペースの中で効率的に動けるよう、動線を考えてコンパクトにまとめることが大切です。 ■私の機器配置の工夫ここでは私が実際に配置している機器の配置⽅法をご紹介します(図4)。私は必要なものをできるだけコンパクトに置きたいため、1つのワゴンに人工呼吸器、吸引器、排痰補助装置、持続吸引器を載せています。⼈⼯呼吸器の加湿器もワゴンの⽀柱に固定してます。 図4 私の機器配置の工夫(一例として) ■カテーテルの保管方法⼝腔内と⿐腔内の吸引に必要なカテーテルは、洗濯バサミの⽳に通し、ワゴンの取⼿に固定して吊り下げています。気管カニューレ内を吸引するカテーテルは、特に清潔な状態を保つ必要があるため、壁から吊るして、⼈の⼿や身体などが触れない場所に保管しています。 在宅療養環境での一般的なカテーテルの保管⽅法としては、以下の2つが⽤いられることが多いです。私の場合、「(2)乾燥させて保管する方法」を採⽤しています。 (1)清潔な容器で保管する方法清潔な蓋つきの保存容器、または未開封の専⽤パック・滅菌袋に入れて保管する⽅法です。容器を再利用する場合は、十分に洗浄・乾燥させてから使用します。(2)乾燥させて保管する方法(私が採用している方法)風通しのよい場所で自然乾燥させて保管する方法です。カテーテルは水分が残ると細菌が繁殖しやすいため、しっかり乾燥させます。 病院では、基本的に吸引カテーテルを1回使⽤したら捨てるのが原則かと思いますが、在宅医療の現場では、使用できる吸引カテーテルの数が限られています。数日使用してから交換するケースが⼀般的なため、私はこのような方法で管理しています。 ■吸引カテーテルの色分け吸引カテーテルは太さによってコネクターの⾊が違います。私は、緑色の14Frを口腔内用、白色の12Frを気管カニューレ内用、黒色の10Frを鼻腔内用として使用しています。原則「鼻用は黒」など、吸引する部位ごとに色を分けておくと、家族が使うときにも間違えなくてよいかと思います。 ■通水ボトルの管理方法カテーテルを使⽤した後は、カテーテルの内腔に水道水を通して洗浄する必要があります。この時に使う水も、私はペットボトルに入れて、フックを取り付け、ワゴンに吊り下げています。気管吸引用カテーテルを通水する水は清潔な状態を維持しないといけないため、常にペットボトルの蓋を締め、⼝腔用・⿐腔⽤のペットボトルと間違えないようにしています。また、ペットボトルの⽔が半分以下になったら中⾝を破棄し、新しい⽔に交換します。ペットボトル自体は、週1回、新しいものに交換しています。 カテーテルや通⽔ボトルの管理⽅法は、家庭ごとに異なります。ここで紹介した方法は、1つの例として参考にしてください。 「enjoy!ALS 2」最終回の最後に― ALSと診断された⼈は、必ず⼀度は「死」を意識するでしょう。これまでずっと、⽣きることに前向きな情報だけを発信してきた私もそうでした。⼈は死を⾝近に感じたときに、改めて⾃分の⼈⽣について振り返るものです。 それが⼀瞬の出来事であれば「⾛⾺灯」と呼ばれるものなのかもしれません。⾃分の⼈⽣について振り返ったときに、⾃分は⼗分⽣きたのか? ⾃分の⼈⽣は満⾜なものだったのか? という問いについて考えさせられることになります。 当時35歳の私は、医師としてのキャリアも順調で、愛する家族もでき、⼈⽣には「希望」しかありませんでした。それが突然、⾃分はALSという病気であり、あと数年で死ぬかもしれないという予測不能な無慈悲な現実に直⾯しました。そのとき、⾃分の希望に満ちた未来は「絶望」という⾔葉に置き換わりました。絶望の中から⼀筋の希望を探し出し、前向きに⽣きていくことは、⾔葉ではとうてい表現できないほど、とてもつらく⼤変なことでした……。 私は「⼈の役に⽴ちたい」という強い思いから医師になり、医師の仕事が⾃分の⽣きがいでした。私の中の⼀筋の希望は「死ぬまで医師として、誰かの役に⽴てるように⽣き続けていこう」という決意でした。そんな⾃分の希望を守っていくために、さまざまな⼯夫を凝らしながら、もがき続けました。対⾯診療ができなくなったら遠隔診療に切り替え、⼿でカルテが書けなくなったら、⻭でカルテを書いてきたのです。 これからもさまざまな困難に直⾯すると思いますが、そのつど⼯夫を凝らしながら、もがき続けていきたいと思っています。そして、精⼀杯⽣きて、⼈⽣の最後にただ愛する妻と息⼦に「パパがんばってたね! かっこよかったね!」と⾔ってもらえたら、きっと⾃分の⼈⽣はとても有意義で素晴らしいものだったと思えることでしょう。そんな⽣き⽅をしたいものです。 コラム執筆者:医師 梶浦 智嗣「さくらクリニック」皮膚科医。「Dermado(デルマド)」(マルホ株式会社)にて「ALSを発症した皮膚科医師の、患者さんの診かた」を連載。また、「ヒポクラ」にて全科横断コンサルトドクターとしても活躍。編集:株式会社照林社

PENUT記事
PENUT記事
コラム
2026年6月2日
2026年6月2日

訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム「PENUT-T」特徴&指導者の声/日本訪問看護財団

在宅での看取りを支える訪問看護師の育成には、実践力だけでなく「人を育てる力」が求められています。PENUT連載最終回となる本記事のテーマは、在宅看取りを地域に広げ、次世代を育てる指導者を育成するための実践的プログラム「PENUT-T(ピーナット・ティー)」です。プログラムの特徴や指導者のリアルな声を通して、その魅力と可能性をご紹介します。 訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム(PENUT-T)とは PENUTの連載第3弾では、訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム(PENUT-T: Program of End-of-life care for home visiting Nurses Training-Trainer)をご紹介します。 PENUT-Tは、在宅看取りを推進するという使命感をもち、所属施設や地域において在宅看取りを実践できる訪問看護師を意欲的に養成できる「指導者」の育成を目的としたプログラムです。2024年度より年1回開催しており、現在は全国で126名の指導者が活動しています(2026年度末時点)。 プログラムは講義と演習で構成され、1日間の集合研修として実施されます(表1)。 PENUT-Tの4つの特徴 1.教育学の専門家による講義 講義「グループワーク研修の実施・評価とファシリテーターの役割・コツ」は、教育学の専門家が担当します。講義では、実践者を対象とした研修で押さえておくべき理論やポイント、ファシリテーターの役割と実践のコツについて学習します。 2.PENUTスーパーバイザーによるファシリテータートレーニング 演習はグループワーク形式で実施され、各グループにはスーパーバイザーが配置されます。スーパーバイザーは、在宅看取りを指導的立場で実践し、社会活動を通じてPENUTの質向上と普及に貢献してきた訪問看護師の方々です。 前列左から:大橋 奈美氏、柴田 三奈子氏、中島 朋子氏、平原 優美、富岡 里江氏、藤田 愛氏後列左から:岩本 大希氏、福田 裕子氏、清野 美砂氏、島田 珠美氏、黒澤 薫子氏、豊田 好美氏 3.修了後は「指導者」としてPENUT演習の開催が可能に PENUT-Tの修了者は、指導者としてPENUTの演習を開催できるようになります。指導者は、開催日時、開催形式(集合/オンライン)、受講料などを自ら設定し、地域や所属施設の在宅看取り実践力向上を目的に研修を企画・実施しています。 4.エビデンスに基づくプログラム PENUT-TはPENUTと同様に、アンケート調査、インタビュー調査、専門家のレビュー、モデル事業を経て開発された、エビデンスに基づく系統的なプログラムです。PENUT-Tの有効性を検証した研究成果は、日本看護科学学会の学術集会1)および学会誌2)にて公表しています。 1)濱谷 雅子, 平原 優美, 小沼 絵理, 沼田 華子, 野口 麻衣子, 菱田 一恵, 岡本 有子, 竹森 志穂, 新幡智子, 山田 享介, 栗田 佳代子, 山本 則子. 訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(指導者)(PENUT-T)の有効性の検討. 第44回日本看護科学学会学術集会(2024年12月)2)濱谷 雅子, 平原 優美, 小沼 絵理, 新幡 智子, 沼田 華子, 野口 麻衣子, 菱田 一恵, 山田 享介, 岡本有子, 竹森 志穂, 栗田 佳代子, 山本 則子. 訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム(PENUT-T)の有効性の検討. 日本看護科学会誌. in press. 指導者の声 地域で活躍する指導者の声を紹介します。 小川 綾乃さん(ソフィアメディ訪問看護ステーション成城 管理者、訪問看護認定看護師/2025年度PENUT-T修了)―PENUT-Tを受講し、指導者を取得した理由を教えてください。これまでもELNEC-J(End-of-Life Nursing Education Consortium-Japan)コアカリキュラム指導者として、講義を行ってきましたが、より在宅の場にフィットした内容で学びを届けたいという思いがありました。また、自ステーションが本年度から東京都の教育ステーションに認定されたこともPENUT-T受講のきっかけとなりました。お看取りの経験が少ない地域のステーションに対してPENUTを実施することで、地域全体の在宅看取りケアの底上げに貢献できるのではないかと考え、受講を決めました。―PENUT-Tを実際に受講してみていかがでしたか。鍋田先生の「グループワーク研修の実施・評価とファシリテーターの役割・コツ」は、本当に素晴らしく、思わず引き込まれる講義でした。私はこれまで、研修では本題を話すことが最も重要だと考えており、研修の目標はついさらっと流してしまいがちでした。しかし、まずは目標をしっかり共有することが、受講者の学びを大きく左右するのだと気づかされました。さらに、「受講者としっかり目線を合わせる」など、講義を進めるうえでの受講者との接し方や心構えも学ぶことができました。受講後すぐに講師を務める機会があったのですが、学んだことを早速実践しています。―グループワーク(演習)はいかがでしたか。グループメンバーは初対面の方ばかりだったので、最初はお互いをきちんと評価し合うことが難しく、「コミュニケーションが上手ですね」「笑顔が素敵ですね」といった、当たり障りのないフィードバックに終始していました。そんなとき、スーパーバイザーから「そういうのはいらない。大事なことはきちんと伝えなければ駄目だ」とズバッと指摘していただき、受講者の学びのために指導者としてどうあるべきか、その心構えを教えていただきました。また、スーパーバイザーは、常に広い視野で状況を捉えていて、いただくアドバイスはどれも有意義でした。大人数の前で手を挙げて質問するのは躊躇してしまう場面もありますが、各グループにスーパーバイザーがついてくださったことで、気軽に質問や相談ができ、理解が深まり、腑に落ちる学びが得られました。ここで身につけたファシリテーションスキルは、面談などさまざまな場面で生きています。―PENUTの開催についてはどのようにお考えですか。自社では、新卒や卒後3年以内の若いスタッフが増えています。お看取りの経験がなく、終末期の身体の変化を知らないスタッフも少なくありません。そのようなスタッフには、PENUTで知識を身につけてもらうことで、利用者や家族に安心していただけるサポートにつながると考えています。まずは自社スタッフを対象にPENUTを実施し、その後は地域でもぜひ開催してみたいです。一方で、演習開催の前に、講義受講料が必要となる点が1つのネックだと考えています。例えば、会社全体から受講希望者を募り、受講料を会社負担で実施できないかなど、いくつかの方法を検討してはいるのですが、まだ実施には至っていないのが現状です。―PENUT-Tの受講を検討している方へメッセージをお願いします。コミュニケーションの取り方やファシリテーションの方法など、自分自身の学びにつながり、実践でいかせる内容が多くあります。受講に迷っている方は、ぜひ受講していただけたらと思います。また、一緒に学んだ仲間との横のつながりができるのもPENUT-Tの魅力です。地域でPENUTを開催する際にも、一人で抱え込まず、仲間と協力しながら取り組むことができます。仲間づくりという点でも、とてもおすすめの研修です。 土屋 清美さん(つむぐ訪問看護ステーション 管理者、訪問看護認定看護師/2023年度 PENUT-T修了)―PENUT-Tを受講し、指導者を取得した理由を教えてください。これまでELNEC-Jコアカリキュラム指導者として地域で活動してきました。ELNEC-Jは病院向けの内容も多いのですが、在宅看取りに特化したプログラムが新たにできたと聞き、自分自身の知識を深めたいと思ったことが受講理由のひとつです。自ステーションのケアの質をより高めたいという思いもありました。さらに、訪問看護認定看護師として「地域に向けて何かできることはないか」と考えていたこともあり、指導者の取得を決めました。―自ステーションのケアの質の向上という点で、PENUTをどのようにいかされていますか。PENUTでは、訪問看護計画の立案とコミュニケーションの演習を行います。経験の浅い訪問看護師が作成する訪問看護計画書は、どうしても看護師側の視点に寄ってしまう傾向があります。そのため、「利用者の目線に立つとどのような計画になるだろうか」と一緒に考える時間を大切にしています。また、利用者や家族への声掛けに躊躇してしまうスタッフもいるため、実際の場面を振り返りながら、コミュニケーションの取り方について一緒に考える機会をつくっています。スタッフにはPENUTの受講を積極的に勧めています。私もスタッフも、PENUTの教材をボロボロになるまで読み込み、日々の実践にいかしています。―地域に向けてはいかがでしょうか。自ステーションが所属する練馬区訪問看護ステーション連絡会の石神井ブロックには、研修会チームがあり、不定期で勉強会を行っています。まずは自ステーションのケアの質を高めていくことを大切にしながら、いずれはPENUT開催の企画を提案できたらと考えています。一方で、開催に至るまでのハードルの高さや日々の忙しさなどには課題も感じています。先日、あすか山訪問看護ステーションがPENUTを開催されたと伺いました。そのような事例も参考にしながら、地域での学びの場づくりにつなげていきたいと思っています。―PENUTやPENUT-Tの受講を検討している方へメッセージをお願いします。PENUTは、在宅という実践の場をしっかりと見据えてつくられたプログラムなので、困ったときに該当ページを開くと、何かしらのヒントが得られると思います。演習では、訪問看護計画書の作成方法やコミュニケーションについてグループで話し合うことで、自分の傾向に気づき、多くの学びを得られる点も魅力です。さらにPENUT-Tを受講して、学んだ知識をスタッフ教育にいかせるようになったと実感しています。 連載のおわりに ここまで3回にわたり、PENUTについてご紹介してきました。開発に携わった多くの訪問看護師、講師、研究者の思いが形となり、PENUTを受講してくださった訪問看護師の皆さんが、今日も全国で素晴らしいケアを実践されていることは、私たちにとって何にも代えがたい喜びです。 一方で、PENUTをより多くの地域や多様な現場へ届けていくためには、例えば、指導者による演習開催の推進、受講者のフォローアップ体制の強化など、まだまだ取り組むべき課題が残されています。さらに、プログラムを時代の変化や現場のニーズに合わせてブラッシュアップし続けていくことも必要です。 これからも、現場の皆さんとともに歩みながら、より実践に根ざした学びの場を育てていきたいと考えています。 PENUT受講案内1. 講義お申込受付中受講形式:オンデマンド配信受講時間:約11時間(テスト含む)受講可能期間:60日間(この間は繰り返し受講可能)プログラム・対象等詳細: https://www.jvnf.or.jp/penutkensyu/2. 演習【日本訪問看護財団主催】(1)会場開催開催日時:2026年11月14日(土)9:30~16:05申込期間:2026年8月1日(土)~10月28日(水)プログラム・対象等詳細:https://jvnf.manaable.com/login/cd87bf81-a546-4684-be21-d46b52f07f9f/detail(2)Web開催開催日時:2027年1月30日(土)9:20~16:05申込期間:2026年10月1日(木)~2027年1月13日(水)プログラム・対象等詳細:https://jvnf.manaable.com/login/230e3b63-f73b-4f42-9799-e2e9e012e5fa/detail【他団体(PENUT-T修了者)主催】他団体主催の演習は、トップページのお知らせに掲載しておりますhttps://www.jvnf.or.jp/penut/PENUT-T受講案内受講形式:集合研修(東京会場)開催日時:2027年2月20日(土)申込期間:2026年11月1日(日)~2027年2月3日(水)プログラム・対象等詳細は、日本訪問看護財団公式ホームページにて後日公表いたします 研修情報・詳細はこちらさらに詳しい情報や研修開催情報については、PENUT専用ウェブサイトをご覧ください。https://www.jvnf.or.jp/penut/ 執筆:濱谷 雅子(はまたに まさこ)/公益財団法人 日本訪問看護財団 事業部博士(看護学)。早稲田大学スポーツ科学部を卒業後、修士課程から看護学の道へ。2020年度より現職。日本訪問看護財団が5年間にわたり実施した「訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムの開発」事業では、主研究者として開発に携わる。訪問看護師の優れた実践をインタビュー調査などを通じて理論化し、その成果を広く社会へ発信する研究活動を行っている。

看護師同乗の「民間救急」とは? 要望に応え、不測の事態に備える仕事
看護師同乗の「民間救急」とは? 要望に応え、不測の事態に備える仕事
コラム
2026年5月26日
2026年5月26日

看護師同乗の「民間救急」とは? 要望に応え、不測の事態に備える仕事

病気や障害などによって「移動の壁」に直面する人は多く、公的支援だけでは不十分な現状があります。そうした課題の中で注目されているのが、医療的ケアを伴う移動を支える「民間救急」です。本記事では、ケアプロ株式会社 交通医療事業部長の藤 健二郎氏に、民間救急の調整や事前対応の実際を紹介いただきます。 執筆:藤 健二郎(とう けんじろう)社会人経験を経て看護師となり、済生会福岡総合病院の救命救急センターで勤務。重症患者の看護に従事した後、大学院で看護師のストレスに関する研究を行い、急性・重症患者看護専門看護師を取得。現在は東京女子医科大学病院CCUでの臨床と並行し、ケアプロ株式会社 交通医療事業部長として、重症患者搬送や外出支援など「医療×移動」の分野で事業を展開している。■ケアプロ株式会社「ドコケア」:https://dococare.com/transport民間救急とは?緊急性の低い患者の搬送を行う民間サービスのこと。多くは、消防庁の認可を受けて「患者等搬送事業(一般乗用旅客自動車運送業)」を行っている。 「民間救急=ただの移動」という誤解 民間救急と聞くと、多くの人は「病院から病院へ、患者を運ぶだけ」「タクシーの延長みたいなもの」と思うかもしれません。 しかし、実際は大きく異なります。そこにいるのは、以下のような患者さんです。 認知症で環境が変わると混乱してしまう人 痙攣のリスクを抱えた人 ALSなど、呼吸や意思伝達に制限がある人 心不全で、今この瞬間も循環動態が揺れ動いている人 こうした患者さんを、医療的ケアを行いながら安全に移動させるのが民間救急です。 状態を安定させながら搬送する たとえば、こんなケースがあります。 末期の心不全で入退院を繰り返している80代の男性。「地元に帰りたい」という強い希望があり、東京から九州へ搬送することになりました。この方は、強心薬と利尿薬を持続投与しながら、身体の状態を維持していました。 つまり、単純に移動するだけではなく、 薬剤の持続投与 バイタルサインのモニタリング 急変リスクへの対応 を行いながらの搬送です。 こうした医療的ケアは、すべて主治医の指示のもとで事前に準備し、搬送中も治療が途切れないように設計しています。さらに今回は、患者さんから「道中で大阪の親戚に会いたい」という希望があり、バリアフリーのホテルを確保して1泊することになりました。宿泊中も医療管理が継続できるよう、必要な薬剤や機器を事前に整え、万が一に備えて近隣の医療機関とも連携をとった上で対応をしました。 予測できないことが起きる前提で動く 慣れない環境で、その患者さんは夜間にせん妄を発症しました。点滴を抜こうとする、落ち着かない、指示が通らない。こうした状況は珍しくありません。 持参していた薬剤を使用しながら対応し、なんとか朝を迎えました。しかし、ここで重要なのは「対応できたこと」ではなく、“対応できる前提で準備していること”です。 万が一に備え、移動経路にある医療機関へ事前連絡 薬剤は搬送終了までもつ量を準備し、事前に医師の指示書を取得 宿泊施設の選定と動線確保 患者と家族、医療者、交通手段の調整 これらをすべて整えたうえで、はじめて「移動」が成立します。 民間救急は「見えない調整」の積み重ねで成り立つ 実際の現場では、 新幹線の座席調整 車いすやストレッチャーの導線確保 タクシーや介護車両の手配 患者の状態に応じた人員配置 など、無数の調整が同時並行で進みます。 しかもそれらは、患者の状態によって常に変化します。 つまり、民間救急とは「医療・生活・移動を同時に成立させる仕事」なのです。 * * * 民間救急は、「ただ運ぶ仕事」ではありません。むしろ、その人の人生の続きをつなぐ仕事です。もし、移動を理由に何かを諦めている患者さんや家族がいるなら、こうした選択肢があることを、知ってもらえたら嬉しいです。

訪問看護ステーションの開設に必要な事業計画とは?
訪問看護ステーションの開設に必要な事業計画とは?
コラム
2026年5月19日
2026年5月19日

訪問看護ステーションの開設に必要な事業計画とは?

訪問看護ステーションの運営は、ケアを提供するだけでは成り立ちません。スタッフの育成や地域との連携、安定した運営体制の構築など――。日々の業務の中で、管理者が考えるべきことは多岐にわたります。そのような状況で、現場の質を保ちながら訪問看護事業を継続していくためには、目の前の業務だけを見ていては不十分です。「誰にどんなサービスを提供していくか」という長期的な視点が欠かせません。そこで重要になるのが、ステーションを立ち上げる前に立案する「事業計画」です。 訪問看護で事業計画を立てる理由 訪問看護ステーションを開業する際、まず着手すべき事業計画。とはいえ、 「そもそも事業計画って何?」 「現場経験しかないけど、自分にできるかな?」という不安を感じている方は少なくないでしょう。 看護の分野は、経営や営業などの文脈では語られることが少なく、「ケアの質が高ければ成り立つ」というイメージを持たれやすいのも事実です。 しかし実際には、「どうやって事業として継続させていくか」を考えなければ、安定した運営は難しくなります。 そこで今回は、訪問看護ステーション立ち上げにおける事業計画とは何か、そしてなぜ必要なのかについて、わかりやすく解説していきます。 事業計画は事業を成立させるための「設計図」 事業計画とは、一言でいうと「事業をどうやって成り立たせるかを整理したもの」です。訪問看護に置き換えると、例えば次のような問いに答えていくことになります。 どんな利用者にケアを提供するのか ステーションの強みは何か どのエリアで開業するのか どうやって地域の方々に選んでもらうのか これらを整理せずに開業してしまうと、なんとなく運営している状態になりかねません。気がついたときには利用者が集まらず、経営が不安定になるリスクも出てきます。 逆に言えば、事業計画をしっかり立てておくことで、ステーションの運営理念が明確になり、経営判断の軸にもなっていくでしょう。 訪問看護の利用者は、自然に増えるわけではない 訪問看護は本来、必要な人に届けるものです。一般的な商売のように、広告や営業で売り込むようなものではありません。そのため、「いいケアをしていれば自然と利用者が増えるのでは?」と思われることもあります。 しかし実際には、地域の中で複数の訪問看護ステーションが存在しており、その中から選ばれる必要があります。つまり、「自分たちのステーションだからこそ発揮できる価値」を考えることが重要です。ここで必要になるのが、まず地域のニーズを知り、他のステーションの特徴を調べること。そしてこれらを踏まえ、どんな価値を発揮するステーションにしていくかを考えることです。 地域ごとの具体的なニーズを把握する 選ばれるステーションにしていくためには、地域のニーズを具体的に知っておく必要があります。エリアによって、訪問看護を利用したい方のニーズは大きく異なります。 独居の高齢者が多い 小児医療のニーズが高い すでに多くのステーションがある などの情報を把握していないと、「ニーズが少ない分野を選んで開業してしまう」「他のステーションが多すぎて選ばれない」といった状況にもなりかねません。 逆に、地域のニーズと自分たちの強みが一致すれば、無理に利用者を増やそうとしなくても選ばれやすいステーションになるでしょう。 そのため事業計画では、「どこで・誰に・何を提供するのか」をセットで考えることが重要です。 地域の中で選ばれる理由を把握する 数あるステーションの中から選ばれるためには、自分たちだからこそ発揮できる価値を考える必要があります。近隣のステーションの特徴を踏まえ、独自の「強み」を見出し、育てていきましょう。例えば、 難病の利用者へのケア体制がある 精神科看護に詳しい人材を確保できている 小児分野の看護・医療体制が整っている などの高い専門性があれば、これらを強みとして、他のステーションとは異なる価値を発揮できます。 このように「どんなサービスを、誰に、どのように提供するか」を、「自分たちだからこそ発揮できる価値」とセットで考えることが、選ばれる事業所づくりにつながるのです。 計画を実現可能にする3ステップ 事業計画は、ただ考えるだけでは机上の空論になってしまいます。実行できる形に落とし込むためには、次の3ステップで進めるとよいでしょう。 ステップ1.やるべきことを洗い出す 手続き・採用・営業準備など、必要なタスクを整理することで、抜け漏れを防げます。 ステップ2.タスクを分類分けする 大小さまざまなタスクを、大まかなジャンルごとに振り分けていきます。 ステップ3.期限から逆算してスケジュールを組む いつまでに開設するのか、そのために何をいつまでにやるのかを決めるフェーズです。月や週単位で何をやるかまで落とし込むことで、計画が現実的になります。また、計画通りに進まないことも考慮し、予備日を設けるようにしましょう。 まとめ:事業計画は、経営で迷わないための地図になる 事業計画は「どうやってこの事業を続けていくのか」を、言葉に落とし込んだものです。日々さまざまな判断を求められる訪問看護管理者にとって、方向性を示す地図があることで、経営の安定性は大きく変わっていくでしょう。 もし今あなたが立ち上げを考えているのであれば、「自分は、どんな訪問看護ステーションをつくりたいのか?」 「誰に、どんな価値を届けたいのか?」といった問いを言葉にすることが、事業計画の第一歩です。 次回のコラムでは、収益構造や人員体制などの視点で事業計画をどう立てるべきか、具体的に解説していきます。それでは、また次回のコラムでお会いしましょう。 執筆・編集者:米沢 まさこ(看護師ライター) 監修:小瀬 文彰(看護師・保健師・経営学修士)株式会社UPDATE代表取締役2013年慶應義塾大学看護医療学部卒。ケアプロ訪問看護ステーション東京にて、新卒訪問看護師としてキャリアをスタート。訪問看護の現場・マネジメント経験の後、薬局・訪問看護を運営するスタートアップ企業にて最高執行責任者として40拠点・年商65億規模の経営に携わり、上場企業へのグループインを実現。 現在は株式会社UPDATEの代表として、訪問看護のマネジメントコーチ(経営・組織づくり支援)や組織マネジメント講座を通し、「想いある医療者に、マネジメントの力を」届ける事業を展開中。その他、業界団体の研修会登壇や調査研究支援(シンクタンク事業)も実施中。

エンバーミングの今と役割―海外事例・コロナ禍の研究から
エンバーミングの今と役割―海外事例・コロナ禍の研究から
コラム
2026年5月12日
2026年5月12日

エンバーミングの今と役割―海外事例・コロナ禍の研究から

日本におけるエンバーミングの浸透状況や背景を整理しつつ、海外で広がる「セレブラント」の取り組みを通して、葬儀がもつ意味を考えます。さらにコロナ禍に、著者である橋爪 謙一郎氏が代表取締役を務める株式会社ジーエスアイが参画したエンバーミングに関する研究やマニュアル作成の取り組みも紹介。「どのような状況でもご遺族が大切な時間を持てるようにしたい」という揺るぎない思いが、すべての活動の根底にあります。 はじめに 米国カリフォルニア州のエンバーマーライセンスを取得し、現地で業務に従事する中で、エンバーミングの価値を実感しました。その経験を胸に、2001年に日本に帰国。日本でもいずれエンバーミングが重要な選択肢となることを期待し、日本人エンバーマーの育成やエンバーミングに関するさまざまな啓蒙活動に取り組んできました。 昨今、大切な人や自分自身の葬儀を検討する際に、宗教やこれまでのしきたりにとらわれず、「自分らしさ」やそれぞれの「死生観」をはじめとした価値観を反映させたいと考える人たちが増えています。しかし、個々人の思いや理想がそのまま実現されることはなかなか難しいのが現実です。 今回は「エンバーミング」が日本でどのくらい浸透しているのか、そしてその背景にある要因についてお伝えします。さらに、葬儀が多様化する中で、海外で広がる「セレブラント」の取り組みを参考に、日本において何を軸に「葬儀」を考えればよいかを「グリーフ(悲嘆)」の視点から考察していきたいと思います。 エンバーミングの普及を阻むもの 2024年時点で、日本全国でどのくらいエンバーミングが行われているのか、あらためて調べてみました。一般社団法人日本遺体衛生保全協会(IFSA)のまとめによると、およそ82,000件1)。同じ年の総死亡者数と照らし合わせると、その割合は約5%にすぎません。残念ながらまだまだ浸透しているとはいえない状況が見えてきます。 浸透度合いが、現状に留まる要因はいくつか考えられますが、ここでは、その中でも特に影響を与えている2点について解説します。 (1)エンバーミング施設とエンバーマーの不足 2025年4月1日現在、全国32の都道府県に90の専門施設が開設され、エンバーミングを提供しています。しかし、これらの施設は都市部に集中しており、エンバーミングを依頼したくてもできない地域があるのが現状です(図1)。 図1 エンバーミング施設のある都道府県 ピンク色:施設のある都道府県日本遺体衛生保全協会:日本への導入経緯.https://www.embalming.jp/embalming/medic/(2026/5/8閲覧)より許諾を得て転載 また、2025年現在、IFSAの認定エンバーマーは約300人になりますが、実際に稼働している人数はこれより少なくなっています。そして、1人が1日に処置できるエンバーミングの件数は、最大で3~4件ほどです(労働時間を8時間として計算)。年間に提供できるエンバーミングの件数を増やすには、エンバーミング施設の数や、認定師資格をもつエンバーマーの人数を増やすしか方法がないといえます。 エンバーマーの数を増やすには、教育機関の拡充も必要ですが、現在、エンバーマーを育成する教育機関は1校しかありません。学校を卒業後、認定試験を受けて、毎年20人前後のエンバーマーが認定されますが、実際の需要に追い付いていない状況です。 (2)価値が伝わらない―業界内の認知の壁 日本にエンバーミングが導入され、1988年に埼玉県内の葬儀社で初めて提供されてから、すでに37年以上が経過しています。しかし、エンバーミングを自社の商品として取り扱っていない葬儀社のスタッフの中には、エンバーミングがご遺族にもたらす価値について、正確な知識を有している人が多いとはいえません。 例えば、「日本では土葬をするわけではないから、エンバーミングは必要ない」あるいは「火葬までの数日間であれば、ドライアイスや保冷庫できれいな状態を保てる」といった考えから、ご遺族にエンバーミングを勧めない葬儀社もあります。 実際に、いくつかの葬儀社に問い合わせをしたものの「エンバーミングは不要」と説得されたり、「当社では対応できない」と断られ、インターネットで探し回った末に弊社にたどり着いたというケースがありました。「エンバーミングをお願いできる会社にやっと出会えた」とホッとされるご家族がまだまだいらっしゃいます。 実は、今回この原稿の執筆依頼をお受けしたのは、正しい情報や知識を必要としている人たちにお届けしたいと考えたからです。ご家族と接する専門職の皆さんがこの記事を読むことで、終末期医療や在宅医療を受けている患者さんのお身体の状態や、ご家族の心身の状態を把握した上で、エンバーミングについて適切に情報提供できるようになるかもしれない。そうすれば、大切な人を喪った後の気持ちを整理し、感情との折り合いをつけていく上で、欠かせない支援になると思うのです。 大切なのは、「エンバーミングが必要かどうか」だけで判断するのではなく、故人のお身体の状態やご家族の心身の状態を踏まえ、医療従事者と葬祭事業者が連携して最適な対応を考えていくことです。死別を経験されたご家族が少しずつ元気を取り戻していけるよう、その過程を支える社会的なしくみが求められているのではないかと感じています。 世界で活躍する「セレブラント」 皆さんは「セレブラント」という職業をご存知でしょうか? セレブラント(Celebrant)とは、故人やその家族の意思、信念、価値観、文化的な背景などを反映させてプランニングされた「世界に一つの儀式」を執り行う人材のことです2)。1973年にオーストラリアで誕生しました。 それまで結婚の儀式は教会のみで挙げるものとされていましたが、移民の増加や性の多様性などの社会的な変化の影響もあり、キリスト教に属していない人々の要望を受けて、政府が結婚式の司祭認可制度を設立しました。これにより、結婚の儀式は教会以外の場所でも行うことが可能になり、選択肢の幅が大きく広がったのです。 やがてこのムーブメントは結婚式だけにとどまらず、葬儀の場にも広がりました。セレブラントが宗教色にとらわれず、故人の生き方やご家族の思いを中心にセレモニーを設計・司会する専門職だったからかもしれません。セレブラントは、宗教だけでは解決できないことを解決し、思いを整理する役割を果たしてきました。ご遺族のグリーフに対して細やかな配慮ができる場づくりが評価され、オーストラリアでは大切な人を亡くした時に、セレブラントに葬儀を依頼する人が増えています。 セレブラントによって執り行われる葬儀の割合について、いくつかの国の統計を参考までに共有します(表1)。 表1 国別セレブラントによって執り行われる葬儀の割合3)-7) ニュージーランド  56%オーストラリア  60~70%アメリカ合衆国52%イギリス40% 日本における葬儀の現状とこれから 日本では葬儀が何のために執り行われるのかという目的を考えることなく、葬儀にかかるコスト面に焦点を当て、簡素化を選択する動きも増えてきたように思います。 確かに、終末期までそばに寄り添えたからこそ「葬儀は質素で構わない」と考える人もいるでしょう。しかし、葬儀の際に故人の「生き方」や「価値観」、「家族との思い出」を反映させた時間をつくり、心の中にしっかりと思い出を残せるような機会をつくることは、グリーフサポートの観点からも必要不可欠だと考えます。諸外国で広がる「セレブラント」の活躍を見ていると、日本においても今その必要性は増しているのではないかと強く感じます。 COVID-19禍における研究への取り組み 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がパンデミックになった際、感染を広げないために葬儀にもガイドラインが設けられました。今振り返ってみると、そこまでしなくてもよかったのではないかと思えるほどの過度な感染対策の結果、顔を見ることもできないまま火葬となり、遺骨を受け取ることしかできなかったご遺族も少なくなかったはずです。 デルタ株が蔓延していた時期、感染対策を徹底しつつご家族が希望するお別れの場をつくるため、当社は千葉大学法医学教室や東京大学法医学教室とともにエンバーミング処置に関する研究に参加しました。検討した内容は(1)感染対策、(2)薬品の濃度、(3)処置の方法など、多岐にわたります。 さらに、この研究に先駆けて、日本医師会総合政策研究機構対新型コロナウイルス特別医療支援タスクフォース「新型コロナウイルス感染症 ご遺体の搬送・葬儀・火葬の実施マニュアル支援プロジェクト」に当初より参画し、海外での対策事例の調査やマニュアル執筆にも携わりました。それは、ご家族や葬儀の参列者はもちろん、エンバーマー、ご遺体を搬送する担当者、葬儀の担当者、火葬場職員など、関わるすべての人々が安全な状態で葬儀を執り行えるようにするためでした。 「さよならのない別れ」とエンバーミングの役割 ミネソタ大学名誉教授のポーリン・ボス博士は、COVID-19で家族を亡くした場合、それは「完全な喪失」ではなく「あいまいな喪失」になる可能性があると示唆しました。喪失そのものが不明瞭な状況であったため、喪失後に起こるグリーフの反応が複雑化したり、凍結したりすることが起こり得ると指摘したのです。 日本ではパンデミック初期から病院での面会制限や遺体への接触制限が広く導入され、「お見舞いにも行けない」「臨終に立ち会えない」「顔を見ることができない」「葬儀を行えないまま火葬される」といった事態が各地で起こりました。こうした状況下での喪失体験は、「本当に亡くなったのか」という思いが宙づりの状態になってしまいます。つまり、「心理的には存在しているが、身体的(物理的)には存在していない状態」に当たると考えられるため、いわば「さよならのない別れ」になってしまうことが危惧されました。 これらのことから、エンバーミングを活用し、感染対策を講じ安全を確保しながらも「死を現実として受けとめる場」を提供する必要性があると考え、当社は研究に協力しました。今後どのような状況においても、ご遺族に必要なお別れの場を提供できるよう研究に取り組み、情報提供に努めていくつもりです。 * * * 4回にわたり、この記事をお読みくださった方には、エンバーミングの「防腐」「殺菌」「修復」の3つの機能をどう活かすかで、意義のあるお別れができるようになることをご理解いただけたのであれば、うれしく思います。 執筆:橋爪 謙一郎株式会社ジーエスアイ 代表取締役一般社団法人グリーフサポート研究所 代表理事米国で葬祭科学とエンバーミング、グリーフサポートを学び、帰国後(有)ジーエスアイと(一社)研究所を設立。現在は東大大学院で脳科学的視点からグリーフの研究を行う。編集:株式会社照林社 【引用文献】1)日本遺体衛生保全協会:エンバーミングの法的解釈.https://www.embalming.jp/embalming/interpretation/2026/5/8閲覧2)株式会社ジーエスアイ:セレブラントとは.https://www.griefsupport.co.jp/griefsupport/celebrant.html2026/5/8閲覧3)The Funeral Directors Association of New Zealand:2023 New Zealand Funeral Industry Trends Report.2023.https://funeraldirectors.co.nz/assets/2023-FINAL-NZ-Funeral-Industry-Trends-Report-v3.pdf2026/5/8閲覧4)McCrindle Research Pty. Ltd.:Australian Bureau of Statistics, The Australian Funeral Directors Association Funeral Industry Trends Report 2024. https://mccrindle.com.au/app/uploads/2018/04/Deaths-and-funerals-in-Australia_McCrindle.pdf2026/5/8閲覧5)National Funeral Directors Association:2024 Consumer Awareness and Preference Studyhttps://nfda.org/about-nfda/research-and-information2026/5/8閲覧6)Church of England Data Services team:The Church of England, Detailed Diocesan tables for Statistics for Mission 2023.https://www.churchofengland.org/sites/default/files/2024-12/statisticsformission2023.pdf2026/5/8閲覧7)Office for National Statistics (ONS):Statistical bulletin, Death registered in England and Wales 2023.https://www.ons.gov.uk/peoplepopulationandcommunity/birthsdeathsandmarriages/deaths/bulletins/deathsregistrationsummarytables/20232026/5/8閲覧 【参考文献】○Pauline Boss:The Myth of Closure: Ambiguous Loss in a Time of Pandemic and Change.New York:W. W. Norton & Company;2021.○黒川雅代子,石井千賀子,中島聡美,他編著:あいまいな喪失と家族のレジリエンス 災害支援の新しいアプローチ:誠信書房,東京,2019.○ポーリン・ボス著,中島聡美,石井千賀子監訳:あいまいな喪失とトラウマからの回復 家族とコミュニティのレジリエンス.誠信書房,2015.

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)
訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)
コラム
2026年4月28日
2026年4月28日

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムPENUT 研修風景&受講者の声/日本訪問看護財団 

在宅での看取りに関わる訪問看護師には、実践を支える専門的な知識や技術に加え、療養者やご家族との関わり方、多職種との連携など、幅広い力が求められます。そうした力を体系的に学べるのが、日本訪問看護財団による訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム「PENUT(ピーナット)」です。本記事では、訪問看護ステーションで行われたPENUT演習の様子や受講者の声を紹介するとともに、研究成果から見えてきた受講後の実践の変化についても解説します。 PENUTの研修風景 PENUTは、オンデマンド講義とライブ演習で構成されるプログラムです(詳細は前回の記事をご参照ください)。ライブ演習は、150名規模のオンライン研修から、数名で行う集合研修まで、目的に応じて多様な形式で実施されています。今回は、2026年1月にあすか山訪問看護ステーションで開催されたPENUT演習の様子をご紹介します。  開催場所:あすか山訪問看護ステーション(東京都北区) 開催日時:2026年1月17日(土) 9:30~15:00  東京都、埼玉県、千葉県の訪問看護ステーションより訪問看護師5名が参加しました。午前は「訪問看護計画の立案」、午後は「コミュニケーション技術の習得(ロールプレイ)」をテーマに演習が行われ、活発な意見交換が行われました。  研修後のアンケートでは、参加者全員が「在宅看取りができそう!在宅看取りをやってみよう!」という気持ちが「とても高まった」と回答しました。その理由としては、「在宅看取りや訪問看護における大切な考え方を学び、本質的な意見交換ができた」、「みなさんが悩む部分や関わり方の工夫を知れてよかった」などの声が寄せられました。少人数・対面だからこそ生まれる深い学びと、実践に直結する気づきが多く得られた様子がうかがえました。  PENUT受講者の声  PENUT受講者の声を紹介します。  寺師 千恵さん(株式会社ウッディ 訪問看護ステーションはーと/2025年度PENUT修了)―PENUTを受講したきっかけや理由を教えてください。訪問看護に約1年前に復帰し、さまざまな研修を受講しながら学び直していたときに、PENUTの講師でもある上司から紹介されました。体系的な知識を順序立てて学べる点に魅力を感じ、受講を決めました。これまで多くのお看取りを経験させていただきましたが、必要な支援はご本人、ご家族、環境によって異なり、その都度悩んだり立ち止まったりする場面があります。だからこそ、勉強を続けていかなくてはいけないと思っています。―実際に受講されて、PENUTの講義で印象に残っていることはありますか。とても充実した内容だったので、印象に残っていることはたくさんあるのですが、例えば「在宅看取りにおける臨床推論」は非常に勉強になりました。現場でどのように考えを組み立て、実践につなげていくのか、これまでは自身の経験に頼る部分が大きかったのですが、体系的に知識として学べたことは大きかったです。痛みのアセスメントなどは実践でも活用しています。また、「ご家族への支援」や「グリーフケア」も印象に残っています。それぞれのご家庭がもつ文化的背景に配慮する大切さや、コミュニケーションや対話を通してその背景に気づく力の重要性を改めて実感しました。―演習はいかがでしたか。経験豊富な看護師さんが多く、さまざまな経験をもとに「看取り」というものを一緒に深く考えることができたと感じています。例えば、痛み止めを使うことに抵抗がある利用者さんに関する話題が印象的でした。私たちはどうしても「何とか痛み止めを使ってもらう方法はないか」という問題解決型の思考で考えがちです。しかし、その方にはどのアプローチもうまくいかなかったそうです。そこで一度立ち止まり、ご本人とご家族と一緒に考えていく姿勢に切り替えたといいます。そして丁寧に話を聞いていくなかで、ご本人は「薬以外で自分がリラックスして楽にいられる方法を探したい」と考えていたことが分かり、「入浴」という希望を引き出すことができたそうです。このように、「痛みをゼロにしなくてはいけない」という価値観から一度離れることで、新しい選択肢が生まれてくるという議論ができました。この議論は、私自身が大切にしている「枠組みや視点を捉え直す」という考え方と深くつながるもので、とても勉強になりました。―PENUTの受講を検討している方へ、メッセージをお願いします。講義はすべてオンラインで、受講期間内であればどこからでも繰り返し視聴できる点はおすすめポイントです。私は平日の帰宅後や土日の空いている時間に視聴しましたが、1日1時間でも確保できれば無理なく進められます。そして、何より魅力的なのが講師陣の豪華さです。第一線で活躍されている著名な先生方から学べる機会は、PENUTならではだと感じています。演習については、私は集合研修を受講しましたが、ロールプレイでは現場さながらリアルな体験ができ、学びが一層深まりました。 大倉 みのりさん(株式会社つむぐ風 つむぐ訪問看護ステーション/2022年度PENUT修了) ―PENUTを受講してから、看取りケアを実践されていますか。 ステーション全体では、年間20~30件のお看取りをしています。私自身は、PENUTを受講した当時は先輩の同行訪問でターミナルケアに携わる程度でしたが、この3年間で10件ほどのお看取りを担当させていただきました。 ―特に印象に残っているお看取りはありますか。 とても仲のよいご家族が協力しながらお看取りされた、非がんの利用者さんが印象に残っています。ご家族は、お小水の量が少なくなってきたり、むくみが増えたりといった体の変化についていけず、不安を抱えている様子でした。そこでスタッフ間で連携し、終末期の身体の変化をまとめたパンフレットを用いて一つひとつ説明したところ、ご家族は安心され、最期まで自宅でケアを続けることができました。PENUTで学んだ「死にゆく過程の身体的変化」の知識が役立った場面でした。 ―ほかにもPENUTの講義や演習で、実践にいかせていると感じることはありますか。 PENUTを受講した当時、利用者さんから「こんなに辛い症状が続くんだったら、もう死にたいわ」と言われた際に、どう受け止めてよいか分からず、言葉に詰まってしまう自分がいました。「在宅看取りに必要なコミュニケーション技術」の講義では、自分の中に生じる「心の壁(ブロッキング)」を自覚し、それを意識的に脇に置いて、相手に寄り添って気持ちを聴くことの大切さを学びました。今でも、利用者さんからマイナスな言葉が出たらどうしようと身構えてしまうことはありますが、自分の気持ちは一度脇に置き、まずは利用者さんの思いをありのままに受け止めることを意識して関わっています。 ―PENUTの受講を検討している方へ、メッセージをお願いします。 お看取りに対して不安を感じている方には、ぜひPENUTを受講していただけたらと思います。「こういうとき、どうしたらいいんだろう」と感じていたことが、PENUTではしっかり学べたという実感があり、受講してよかったと思っています。終末期には、機能が徐々に低下していくことでさまざまな症状が現れますが、そのしくみは何となく頭で理解していたものの、うまく言語化できていませんでした。PENUTで学んだことで、身体の変化をご本人やご家族に説明できるようになり、それが自分の自信にもつながりました。  研究成果からみるPENUT受講者の変化  次に、PENUTの有効性を検証した研究成果をご紹介します。  PENUTは終末期ケアに対する自信を向上させる  2021年度に実施したモデル事業では、PENUTを先に受講する介入群と、後から受講する対照群にランダムに割り付け、緩和ケアに関する医療者の自信・意欲尺度(訪問看護バージョン)を用いて、PENUTの有効性を検証しました。  介入群のみがPENUTを受講した時点で、介入群(62名)は対照群(59名)よりも「終末期ケア」および「医師とのコミュニケーション」に対する自信が向上し、「症状緩和」の困難感が減少しました。  PENUT受講者の実践の変化―「根拠ある説明」と「柔軟なケア」  同モデル事業参加者へのインタビュー調査では、PENUT受講により知識を習得できたことで、「亡くなるまでの身体的変化がイメージできるようになった」、「症状に対するアセスメントやアプローチ、ケアの幅が広がった」、「暮らしの中で柔軟なケアができることに気づかされた」といった変化が語られました。さらに、「病態変化や予後を予測し先手を打った対応がとれるようになった」、「療養者やご家族に根拠ある説明ができるようになった」など、実践面での成長も明らかとなりました。 研修情報・詳細はこちら さらに詳しい情報や研修開催情報については、PENUT専用ウェブサイトをご覧ください。 https://www.jvnf.or.jp/penut/  次回はPENUT指導者の声と今後の展望についてご紹介します。>>次回の記事はこちら 訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム「PENUT-T」特徴&指導者の声/日本訪問看護財団 執筆:濱谷 雅子(はまたに まさこ)/公益財団法人 日本訪問看護財団 事業部 博士(看護学)。早稲田大学スポーツ科学部を卒業後、修士課程から看護学の道へ。2020年度より現職。日本訪問看護財団が5年間にわたり実施した「訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムの開発」事業では、主研究者として開発に携わる。訪問看護師の優れた実践をインタビュー調査などを通じて理論化し、その成果を広く社会へ発信する研究活動を行っている。 

訪問看護の組織づくりでMVVが必要な理由
訪問看護の組織づくりでMVVが必要な理由
コラム
2026年4月14日
2026年4月14日

訪問看護の組織づくりでMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)が必要な理由

訪問看護ステーションの運営では、日々さまざまな判断が求められます。利用者・家族・多職種との調整、スタッフ教育、緊急対応――。その場その場で最善の選択をし続けることは簡単ではありません。ステーションの規模が大きくなるほど、判断基準の違いによる迷いや負担が管理者に集中しやすく、「組織としての軸」を求める声が増えてきます。こうした背景から近年注目されているのが、組織の理念や価値観を言語化した「MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)」です。訪問看護において、なぜMVVが重要なのでしょうか? その理由とメリットを、現場の課題と照らし合わせながら解説します。 訪問看護の組織づくりでMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)が必要な理由 訪問看護ステーションの運営において、「MVV(Mission・Vision・Value)」を掲げるケースが増えてきました。日本語にすると「使命」「目指す未来」「価値観」ですが、耳なじみのない方もいるかもしれません。知っていたとしても、「理念を作った方がいいとは聞くけれど、忙しくてそこまで手が回らない」「本当に必要なのだろうか?」と感じている管理者の方も多いのではないでしょうか?確かに、理念がなくても、訪問看護の現場は回るでしょう。それでも多くのステーションが、ある段階で組織運営の壁にぶつかります。 そこで今回は、訪問看護ステーションにおいてMVVを明確にするメリット、明確にしないデメリットをお伝えしたいと思います。 訪問看護では理念がなくても機能する一方で… 訪問看護は、専門職の集まりです。看護師はそれぞれ高い倫理観を持ち、「利用者さんのために」という思いを共有しています。そのため、組織として明確な理念がなくても、現場はある程度機能します。 「利用者に寄り添うケアを行い、チームで協力しながら業務を進める」ことは、多くの看護職が当たり前のように行っているでしょう。しかし、ここに落とし穴があります。それは、「良いと思っていること」の基準が人によって違うということです。例えば、 利用者からの急な訪問依頼にどこまで応えるのか 家族からの相談にどう対応するのか 時間外対応をどう判断するのか こうした場面で、スタッフごとに判断が分かれることがあります。 小規模な組織であれば、管理者の考え方や暗黙のルールで回ることもあります。しかし、組織が少しずつ大きくなってくると、この違いが徐々に表面化してきます。 組織が大きくなると生じる価値観のズレ 訪問看護ステーションの運営では、スタッフが増えるほど組織マネジメントの難易度が上がります。人数が少ないうちは、 管理者の価値観 長く働くスタッフの経験 暗黙のルール などで組織がまとまることもあります。 しかし、スタッフが増え、新しいメンバーが加わると、価値観のズレが生まれやすくなります。例えば、 ケアの優先順位の考え方 利用者や関係者への対応のしかた チーム内の役割意識 といった部分で小さな違いが積み重なると、チームとしての一体感が弱くなります。 さらに、判断のたびに管理者に確認するような組織になると、管理者の負担も大きくなります。「このケースはどう対応したらいいですか?」「この判断でよかったでしょうか?」こうした相談が増えれば増えるほど、管理者は現場判断を一手に引き受けることになります。 訪問看護管理者の役割は方向性を示すこと 訪問看護管理者の仕事は多岐にわたります。人材管理・クレーム対応・地域連携・経営管理など、日々の業務に追われることも少なくありません。その中でも特に重要な役割が、組織の方向性を示すことです。訪問看護は現場判断の連続です。利用者や家族の状況は一人ひとり異なり、マニュアルだけでは対応できない場面も多くあるでしょう。だからこそ、スタッフが迷ったときに立ち返ることができる「軸」が必要になります。その軸を言語化したものが、MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)です。 MVVは組織の判断基準になる MVVを改めて定義すると ●Mission(使命):私たちは何のために存在するのか●Vision(目指す未来):どんな組織を目指すのか●Value(価値観):どんな行動を大切にするのか を言語化したものです。これらが明確になると、現場の判断基準が揃います。MVVを明らかにすれば、スタッフが迷ったときに、「私たちの価値観から考えるとどうだろう?」と考えることも可能です。 管理者がその場にいなくても、組織としての判断ができるようになることから、管理者の負担を減らすという意味でも非常に大きな効果があります。 MVVがチームを強くする MVVのもう一つの役割は、チームの一体感を生み出すことです。訪問看護ステーションは、背景が異なる医療職が集まってチームを形成しています。一人ひとりの経験や価値観が違うからこそ、組織として大切にするものを共有することが重要です。 MVVがある組織では、 同じ方向を向いて仕事ができる 判断基準が共有される チームとしての一体感が生まれる といったポジティブな変化が起き、チームを強くするのです。また、MVVを組織で共有することで、採用の場面でも効果が期待できます。理念に共感して入職するスタッフは、組織に馴染みやすく、長く働く傾向があります。 まとめ:組織のコンパス「MVV」を明確にしよう! MVVを明確にするのは、立派な言葉を掲げるためではありません。大切なのは、組織のコンパスとして機能させることです。訪問看護の現場では、日々さまざまな判断が求められます。そのときに、組織全体で大切にする価値観があるかどうかで、チームワークは大きく変わります。もし今あなたが、組織運営に迷いを感じているのであれば、一度立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか?「私たちは、何のためにこのステーションを運営しているのか?」「どんな組織を目指し、どんな行動を大切にするのか?」これらを明確にし、共有することが、強い組織づくりの第一歩になるかもしれません。 執筆・編集者:米沢まさこ(看護師ライター)監修:小瀬文彰(看護師・保健師・経営学修士)株式会社UPDATE代表取締役2013年慶應義塾大学看護医療学部卒。ケアプロ訪問看護ステーション東京にて、新卒訪問看護師としてキャリアをスタート。訪問看護の現場・マネジメント経験の後、薬局・訪問看護を運営するスタートアップ企業にて最高執行責任者として40拠点・年商65億規模の経営に携わり、上場企業へのグループインを実現。現在は株式会社UPDATEの代表として、訪問看護のマネジメントコーチ(経営・組織づくり支援)や組織マネジメント講座を通し、「想いある医療者に、マネジメントの力を」届ける事業を展開中。その他、業界団体の研修会登壇や調査研究支援(シンクタンク事業)も実施中。

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)開発秘話/日本訪問看護財団
訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)開発秘話/日本訪問看護財団
コラム
2026年3月24日
2026年3月24日

訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)開発秘話/日本訪問看護財団

在宅で最期を迎えることを希望する人がいるなか、訪問看護師は、療養者や家族に寄り添いながら看取りを支える重要な役割を担っています。そうした社会的背景のもと誕生したのが、訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT:ピーナット)です。本記事では、PENUTの特徴とともに、開発に込められた思いや歩みを紹介します。 ■公益財団法人 日本訪問看護財団 PENUT事務局職員 平原 優美(ひらはら ゆみ)/常務理事、在宅看護専門看護師小沼 絵理(おぬま えり)/事業部所属岸 純子(きし じゅんこ)/事業部所属、在宅看護専門看護師角田 佳奈美(すみだ かなみ)/事業部所属濱谷 雅子(はまたに まさこ)/事業部所属※手前左から時計回りに記載 執筆:濱谷 雅子(はまたに まさこ)/公益財団法人 日本訪問看護財団 事業部博士(看護学)。早稲田大学スポーツ科学部を卒業後、修士課程から看護学の道へ。2020年度より現職。日本訪問看護財団が5年間にわたり実施した「訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムの開発」事業では、主研究者として開発に携わる。訪問看護師の優れた実践をインタビュー調査などを通じて理論化し、その成果を広く社会へ発信する研究活動を行っている。 訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)ってなに? 訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT: Program of End-of-life care for home visiting NUrses Training)は、在宅看取りを実践できる訪問看護師の養成を目的としたプログラムです。オンデマンド講義(約10時間)と演習(1日間)で構成されます(図1)。 2021年度に実施したモデル事業を含め、2026年1月末までに818名が修了しています。 【PENUTの3つの特徴】 PENUTの主な特徴は以下の通りです。 1. エビデンスに基づく系統的なプログラムPENUTは、アンケート調査、インタビュー調査、専門家のレビュー、モデル事業を経て開発された、エビデンスに基づく系統的なプログラムです。PENUTの有効性を検証した研究1)は、日本看護科学学会にて学術論文優秀賞および最優秀演題口頭発表賞を受賞しました。 2. 在宅看取りに卓越した訪問看護師と医師による臨場感ある講義講義は、在宅看取りに豊富な経験をもつ訪問看護師と医師が担当しています(表1)。各講義では、実際の事例に基づく支援の過程や療養者・家族とのコミュニケーションの様子などが再現され、臨場感のある学びが得られます。また、講義はオンデマンド配信のため、受講期間内であればいつでもどこでも何度でも視聴可能です。 3. 専門的な教育を受けたファシリテーターによる演習演習では「訪問看護計画の立案」と「コミュニケーション技術の習得」をテーマにグループワークを行います。訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム(PENUT-T)※により専門的な教育を受けた指導者がファシリテーターを担当します。 ※ 訪問看護師向け在宅看取り指導者養成プログラム(PENUT-T:Program of End-of-life care for home visiting NUrses Training-Trainer)は、PENUTを開催できる指導者を養成する教育プログラムです。詳しくは別の記事で紹介します。 PENUTはどうして誕生したの? 日本訪問看護財団では、訪問看護師による在宅看取りの推進を目的に、2017年度よりELNEC-J(End-of-Life Nursing Education Consortium-Japan)コアカリキュラムを用いた研修を実施してきました。ELNEC-Jは科学的根拠に基づいた有用なプログラムですが、主に医療施設における成人がん患者のケアを想定しており、当財団としては訪問看護に特化した包括的な看取り支援のための教育プログラムの必要性を感じていました。 国内の年間死亡者数は2040年には約168万人に達すると推計されています2)。また、国民の約半数は自宅で最期を迎えることを希望しています3)。こうした社会的背景を受け、当財団は2020年度よりPENUTの開発に着手しました。 PENUTの開発秘話 PENUT開発の歩み PENUTの開発は、日本財団の助成を受けて2020年度に始まり、5年間の計画で進められました。 図2に示すように、はじめに有識者で構成される検討委員会(委員長:東京大学・山本則子教授)とワーキング委員会を設置し、文献検討、アンケート調査、インタビュー調査を重ねてプログラム案を作成しました。その後、モデル事業の実施・評価を行うなど、複数の段階を経て完成に至りました。 コロナ禍での手探りのスタート PENUT開発事業は、まさにコロナ禍の真っただ中にスタートしました。緊急事態宣言が発令されるなか、訪問看護の現場は日々対応に追われ、ひっ迫した状況にありました。そのような状況で「プログラム開発をしている場合ではないのではないか」という声もありました。一方で、多死社会の到来は目前に迫っており、地域で看取りを支えるしくみづくりは待ったなしの課題です。こうした中長期的な視点で事業を進めることも、当財団の使命であると考え、PENUT開発事業をスタートさせました。 しかし、いざ事業を始めてみると、プログラム開発の手順や進め方について、右も左も分からないことばかりでした。どのような段階を踏めば質の高い教育プログラムがつくれるのか、どのように根拠を積み上げていくのか、手探りの状態からのスタートでした。 課題に一つひとつ向き合い、積み上げた5年間 そこで、財団事務局とワーキング委員で、国内外の類似プログラムや教育理論、研究方法について、文献を読み込み、必要なプロセスを一つひとつ整理していきました。そして、プログラムの開発や評価研究の経験をもつ専門家から助言をいただきながら、少しずつ事業の形を整えていきました。 こうして動き出した事業でしたが、5年間の道のりは決して平坦ではありませんでした。モデル事業の参加者は集まるのか、効果的なコミュニケーション技術演習をオンラインでどのように行うのか、収集した膨大なデータをどのように分析しプログラムに反映させるのかなど、一つひとつの課題に対し、事務局で議論を重ね、検討委員とワーキング委員の助言を得ながら進めていきました。 現場の訪問看護師の思いと実践がプログラムに そのようななかで、モデル事業に参加し、開発に協力してくださった全国の訪問看護師の皆さんの存在は、私たちの大きな支えとなりました。インタビュー調査では、日々悩みながらも積み重ねられている素晴らしい実践を、丁寧に、時に熱を込めて語ってくださいました。その語りに触れるたびに、「このような実践ができる訪問看護師をもっと増やしたい」という思いが強くなりました。 さらに、プログラムの講師や演習のファシリテーターを担当してくださったのも、まさに現場で看取りを支えている訪問看護師の方々でした。ご自身の経験を惜しみなく共有し、受講者に寄り添いながら学びを導く姿に、私たちは何度も心を動かされました。その実践の深さに触れるたび、「この内容を社会へ発信したい」という思いを強くしました。 このように、全国の訪問看護師の皆さんが語ってくださった実践、講師やファシリテーターとして支えてくださった方々の熱意、そして専門家の助言が、プログラムの要素を形づくっていきました。まさにPENUTは「現場とともにつくる教育プログラム」として育まれてきたのだと感じています。 研修情報・詳細はこちらさらに詳しい情報や研修開催情報については、PENUT専用ウェブサイトをご覧ください。 https://www.jvnf.or.jp/penut/ 次回は、「PENUT誕生で変化する看取りの現場」と題し、受講者の声を紹介します。>>次回の記事はこちら訪問看護師向け在宅看取り教育プログラムPENUT 研修風景&受講者の声/日本訪問看護財団 【参考文献】1)濱谷雅子, 平原優美, 小沼絵理, 沼田華子, 野口麻衣子, 菱田一恵, 岡本有子, 竹森志穂, 新幡智子, 栗田佳代子, 山本則子:無作為化比較試験による訪問看護師向け在宅看取り教育プログラム(PENUT)の有効性の検討. 日本看護科学会誌, 44, 218-227, 2024. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jans/44/0/44_44218/_pdf/-char/ja2026/3/10閲覧2)内閣府(2022):第1章 高齢化の状況 高齢社会白書 (令和4年版),5, 日経印刷株式会社.3)厚生労働省(2023): 人生の最終段階における医療・ケアに関する意識調査報告書.https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/saisyuiryo_a_r04.pdf2026/3/10閲覧

ALS患者に必要なリハビリテーション【呼吸筋編:柔軟性を維持し合併症予防】
ALS患者に必要なリハビリテーション【呼吸筋編:柔軟性を維持し合併症予防】
コラム 会員限定
2026年3月10日
2026年3月10日

ALS患者に必要なリハビリテーション【呼吸筋編:柔軟性を維持し合併症予防】

本記事は、医療関係者のスキルアップを目的として医療機器の画像を掲載しているため、NsPace会員様(医療関係者)限定で公開しています。 ALSを発症して10年、現役医師・梶浦先生によるコラム連載、第2弾。ALSでは、進行とともに呼吸筋の機能が徐々に低下していきます。そのため、呼吸機能をなるべく長く保てるようリハビリテーション(以下、リハビリ)がとても重要です。今回は、呼吸のしくみを踏まえた上で、梶浦先生が実践するリハビリの方法についてご紹介いただきます。 ※推奨されるリハビリの方法は、個人の症状によって異なります。必ず、主治医や担当のリハビリスタッフ同意のもとで実施してください。安全のため、自己判断で行うのは避けましょう。 はじめに 前回のコラム(「ALS患者に必要なリハビリテーション【四肢編:拘縮予防が最大のポイント】」参照)では、四肢のリハビリ⽅法をご紹介しました。今回は体幹、特に呼吸筋のリハビリを取り上げます。 ALSは、全⾝のさまざまな筋⼒が低下していく進⾏性の疾患です。呼吸を司る呼吸筋も例外ではありません。呼吸筋も筋⼒が低下して使わなくなっていくと柔軟性が失われ、肺の予備能⼒が低下し、無気肺(肺の⼀部に空気が⼊っていない状態)や肺炎などのリスクが高まります。 このため、肺や呼吸筋の柔軟性を保つリハビリがとても大切です。リハビリの方法を理解するためには、まず⼈がどのように呼吸をしているのか、そのしくみについて説明していきます。 呼吸のしくみ ⾃分の⼒で肺⾃体を膨らませて空気を取り込んでいると思われている⽅もいらっしゃるかもしれませんが、実際にはそうではありません。肺そのものには膨らむ機能はなく、胸郭と横隔膜を広げることで胸腔内(胸郭と横隔膜に囲まれた肺を収納しているスペース)を陰圧にし、間接的に空気を肺に取り込むことで呼吸が行われています。 胸腔内の容積を広げる⽅法は、⼤きく分けて2つあります。 ●胸式呼吸外肋間筋を収縮させ、肋骨を引き上げて胸郭を前後左右に広げる⽅法●腹式呼吸横隔膜を収縮させて、胸腔内を下方向に広げる⽅法 通常の呼吸ではどちらか⼀⽅ではなく、外肋間筋と横隔膜、両⽅の働きによって呼吸運動が⾏われています(図1)。 図1 呼吸のしくみ リハビリに適した体勢 横隔膜の下には、肝臓や胃、腸などの内臓があります。⽴位や座位であれば、重⼒によって内臓が下がるため、横隔膜が広がるスペースができます。しかし、ALSの症状が進⾏すると、⼈⼯呼吸器を装着し、仰臥位(仰向け)の姿勢で過ごすことが多くなります。 ⼈⼯呼吸器を使用している状態では、呼吸はほぼ⼀定の間隔と換気量に設定されるため、深呼吸ができません。また、内臓が重力で下がらないため、横隔膜を使った腹式呼吸もしづらくなります。これらの理由から、仰臥位では胸式呼吸が中心となります。 そうすると、下肺野まで空気が十分に届かず、痰の貯留や無気肺の原因になってしまいます。可能であれば、できるだけ座位に近い姿勢になるようベッドを起こすか、⾞椅⼦に移乗した状態で、横隔膜と下肺野がしっかり広がる体勢を整えてからリハビリを始めてください。 肺・胸郭の柔軟性を保つためのリハビリ 用手的呼吸介助手技 ⽤⼿的呼吸介助⼿技 (breathing assist)は胸郭の弾性を利⽤し、胸郭の⽣理的運動に一致する方向に圧迫する⼿技です。 具体的には、介助者の手掌から指先までを胸郭の形状にぴったりと合わせる様に密着させて、呼気時に胸郭を斜め下方向に圧迫することで、胸式呼吸のリハビリが行えます。これにより、胸郭の柔軟性をある程度維持できます。圧迫する方向は、仰臥位と座位で変わりません(図2)。 図2 用手的呼吸介助手技(呼気時) 注意!:用手的呼吸介助手技は、骨粗鬆症といった骨折リスクのある基礎疾患をお持ちの⽅は控えたほうがよいです。必ず主治医の同意を得て⾏うようにしてください。 呼吸リハビリ機器を用いたリハビリ より効率的に胸式呼吸と腹式呼吸のリハビリを⾏うために、呼吸リハビリ機器である「LICトレーナー(R)」(図3/以下、登録商標マーク(R)を省略し表記)を使用する方法があります1)。 LICとは、「lung insufflation capacity」の略で、「肺強制吸気量」を意味します。LICトレーナーにアンビューバッグを接続し、用手的に肺に空気を入れることで、強制的に深呼吸した状態をつくり、この状態を一定時間保つことができます。これにより胸郭と横隔膜の両方を広げられるため、これまで外部からのアプローチが困難であった腹式呼吸のリハビリも可能になりました。 なお、LICトレーナーの概要は、前回のコラム#21「ALS患者に必要な情報「実用編」 ~のど~」でご紹介していますので、ぜひそちらをご参照ください。今回は、LICトレーナーを使って、実際にどういった方法でリハビリを行っているのかをご紹介したいと思います。 図3 LICトレーナー LICトレーナーは主治医の許可を得て、理学療法⼠の指導のもと、⾃宅での使⽤が可能です。継続的に使⽤することで、肺の柔軟性維持や咳嗽⼒の向上が期待できます。 ●導入開始時期のめやす「⾃分の⼒では深呼吸ができない」と感じた時期から、気管切開して⼈⼯呼吸器を装着してからでも、いつでも開始可能ですので、主治医と相談してみてください。私は、呼吸のリハビリを開始するのに遅すぎることはないと思っています。 ●具体的なリハビリの⽅法 導入時・20cmH2Oから開始する・気道内圧20cmH2Oまで加圧し、5~10秒程度息止めをし排気した後、適宜インターバルを入れる(用手換気〔バギング〕回数:500mL×4~5回程度)・これを5回繰り返して1セットとし、1日3~6セット行う・肺活量が測定可能な段階の方は、⾃⼒での肺活量との差を1,000mL以上に維持できるとよい 上記のリハビリに慣れてきたら、主治医と相談しながら、少しずつ気道内圧を上げていきます。 深吸気換気量が物⾜りなくなったら……・気道内圧30~40cm H2O まで加圧し、5~10秒程度息止めをし排気した後、適宜インターバルを入れる(バギング回数:500mL×6~8回程度)・これを5回繰り返して1セットとし、1日3~6セット行う さらに慣れてきたら、主治医と相談の上、息止めの時間を適宜調整します。 私の場合、気道内圧40cmH2Oで30秒おきに胸郭を圧迫し、上肺野の容積を減らし、下肺野に空気がたくさん⼊るように横隔膜をしっかりと広げています。そして、LICトレーナーでのリハビリが終わったら、⽤⼿的呼吸介助⼿技で胸郭のリハビリを⾏う、これを毎⽇3セット実施しています。 実際のLICトレーナーを使用する様子は、動画でもご覧いただけます。▼enjoy ALS (YouTubeチャンネル)https://www.youtube.com/@S.Kaji_SND ※リンク先はYouTube(外部サイト)となります。※チャンネル内の「ALS_LICトレーナー導入編」「ALS_LICトレーナー応用編」の動画をご参照ください。※動画の撮影では「なごみ訪問看護ステーション」に協力いただきました。 LICトレーナー使用時の注意点:LICトレーナーは肺に圧をかけて⾏うリハビリのため、練習および導入は、肺実質に以下のような問題がある場合は実施しないでください2)。・慢性閉塞性肺疾患(COPD)・肺気腫・ブラ(肺の内部に異常な量の気泡が形成された状態)・気胸の既往また、2025年8月現在、LICトレーナーは保険適⽤外で、導⼊には約5万円程度の費⽤がかかります。経済的な負担が大きい場合は、医療保険を使って⼈⼯呼吸器と一緒にレンタルできる「カフアシスト」を代替手段として選択する方法もあります。 コラム執筆者:医師 梶浦 智嗣「さくらクリニック」皮膚科医。「Dermado(デルマド)」(マルホ株式会社)にて「ALSを発症した皮膚科医師の、患者さんの診かた」を連載。また、「ヒポクラ」にて全科横断コンサルトドクターとしても活躍。編集:株式会社照林社 【引用文献】1)Yorimoto K,Ariake Y,Saotome T,et al:Lung Insufflation Capacity with a New Device in Amyotrophic Lateral Sclerosis:Measurement of the Lung Volume Recruitment in Respiratory Therapy.Prog Rehabil Med 2020;5.https://doi.org/10.2490/prm.202000112025/10/23閲覧2)「LIC トレーナー」添付文書https://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/kikiDetail/ResultDataSetPDF/202126_11B3X10044000001_A_01_022025/10/23閲覧

エンバーミングとご家族のケア―最後の時間を穏やかに過ごすために
エンバーミングとご家族のケア―最後の時間を穏やかに過ごすために
コラム
2026年2月17日
2026年2月17日

エンバーミングとご家族のケア―最後の時間を穏やかに過ごすために

エンバーミングは、ご遺体の状態を保つための技術であると同時に、大切な人の死を受け止め、お別れの準備ができるよう時間と環境を整えるための支援でもあります。今回は、エンバーミングによる心理的な影響や、著者が代表取締役を務める株式会社ジーエスアイで取り組んでいる施術後のご家族との関わりについて教えていただきます。 はじめに ACP(アドバンス・ケア・プランニング)をはじめ、患者本人の医療行為に関する意思を尊重する取り組みが広がりつつあります。それと同時に、さまざまな民間団体が「終活」という枠組みの中で、亡くなる前にご家族の負担を軽減するための活動を積極的に展開しています。 「最後にどのように送られたいか」「どのように送りたいか」を本人とご家族、それぞれの希望を生前に共有し、準備しておくことで、いざという時に心の余裕が生まれ、その人らしい最後を迎えられるのだと思います。 アメリカから帰国後に、終末期医療や訪問医療に携わる医療従事者と、エンバーミングについて意見交換をしたことがあります。ご家族にとってエンバーミングは「安らかできれいな姿でお見送りができる」「葬儀の日程が先になった場合でも、保冷庫の中に預けたままではなく、そばにいてあげられる」といった点から、選択肢の1つになり得ると肯定的な意見があった一方で、次のような疑問も投げかけられました。 「その変わらない姿を見ることで、長く一緒に過ごすうちに、かえって死を受け入れられなくなるのではないでしょうか」 こうした疑問を受け、今回は「エンバーミング」と「死を受け入れること」について、現在もエンバーミングと並行して取り組んでいる「グリーフ(悲嘆)」の視点から考察していきたいと思います。 「きれいな姿」が死の受容を妨げる? また別の機会に、葬儀社の方々とエンバーミングについて意見交換をした際にも、似たような話がよく聞かれました。 例えば、 亡くなって体温が下がり、さらにドライアイスなどで冷やされた身体に触れることで、死の現実を実感できる。変化しなければお別れの決心がつきにくい 儀式が滞りなく進むことで、死を受け入れることができる。エンバーミングを行い、日程を延ばせば、お別れができなくなる といった内容が代表的なものでした。 依頼を断るケースもある 起業した20年ほど前、まだエンバーミングを知る人も少なかった頃、あるご遺族からエンバーミングのご相談がありました。その方がエンバーミングを希望する理由を含め、長時間お話をお聴きする中で、その言動から故人との間に極度の依存関係があり、精神的にも執着している可能性が高いと感じられました。 また、日本遺体衛生保全協会(IFSA)が定める自主基準(表1)のうち、海外搬送の場合を除き、死亡後50日を超えてのご遺体の保存処置を行わないというルールにも同意いただけませんでした。そのため、依頼を受けてしまうと大きな問題へと発展する恐れがあると判断し、やむなくお断りしたケースでした。 表1 IFSAの自主基準 1.本人またはご家族の署名による同意に基づいて行うこと2.IFSAに認定され、登録されている高度な技術能力を持った技術者によってのみ行われること3.処置に必要な血管の確保および体腔の防腐のために最小限の切開を行い、処置後に縫合・修復すること4.海外移送をする場合を除いて、死亡と判定された日から50日を超えて保全しない 日本遺体衛生保全協会:エンバーミングの法的解釈.https://www.embalming.jp/embalming/interpretation/(2025/8/26閲覧)より許諾を得て転載 しかし、これはあくまでも例外的なケースであり、基本的に私たちは、IFSAの自主基準に同意していただければ、処置依頼を受けるようにしています。 その上で強調しておきたいのは、「お別れができないから」という理由で葬儀や火葬を取りやめた事例は、これまで一度もないということです。私たちはご遺族が大切な方と最後のお別れをきちんとできるように、できる限りの支援をしています。 実際、アメリカにおいてもエンバーミングを説明する際には、故人の面影やその人らしい表情を取り戻すための大切なプロセスとして「Preparation(準備)」という言葉がよく使われます。エンバーミングは、お別れの時間を整えるための行為であり、私たちの姿勢もそこに重なります。 処置後も関わり「死を受け入れる」手助けに エンバーミングを行っても、ご遺体が安置される環境によっては、状態が変化することがあります。それは皮膚の乾燥です。心臓の停止により血流が止まり、体内の水分供給が断たれるため、時間とともに水分が蒸発し、特に外気に触れる部分や皮膚の薄い部分が乾燥しやすくなります。 このため、処置後も表皮の保湿を続けなければ、どうしても乾燥は進んでしまいます。ご安置が1週間を超える場合には、定期的にご自宅を訪問してお身体の状態を確認し、保湿や化粧直しなどを行います。お見送りやお別れの日まで、よりよい状態を保つために故人と関わり続ける必要があるのです。これを、当社は「様子見」と呼び、大切な取り組みとして位置づけています。 また、この機会を利用して「死を受け入れる」プロセスを進めるための働きかけも行っています。 エンバーミングの処置依頼を受ける時点では、さまざまな事情から葬儀の日程が決まっていないこともあります。そのような場合には、ご遺族が納得した上でお別れの場に臨めるように、様子見の際にお話を伺いながら、後悔の念や罪悪感を抱えていることがあれば、その解消に向けた支援ができるよう意識しています。もう少し理解していただきやすくするために、当社が実際に行っている支援の工夫をお伝えしましょう。 少しずつ変化をつける ご遺体の安置時には、安らかに眠っているかのように見えるよう、パジャマや浴衣をお着せします。納棺の日には、その人らしさを象徴するようなお見送りのための服装への着替えをご提案することもあります。納棺を通じて、旅立ちの準備が進んでいることを自覚できるように変化をつけ、徐々に死を受け入れる流れを作っています。 罪悪感や後悔の解消をサポート 闘病中は病気の治療が最優先となり、それ以外のことが後回しにされることがよくあります。「おしゃれがしたい」「きれいにメイクをしたい」「爪をかわいくしたい」といった願いも、「元気になったらね」と先送りされることが多く、結果的に叶わなかったということが少なくありません。亡くなった後に、「生前にもう少し好きにさせてあげればよかった」と後悔されるご遺族が少なくないのです。 多くの企業では、エンバーミングとお化粧をエンバーミングセンター内で完結させます。しかし、先述したように、当社ではご希望があればご自宅でメイクはもちろん、マニキュアを塗るなど、生前にできなかったことを最後に叶えて差し上げることもあります。 生前にご本人がしたいとお話しされていたことや、ご家族の希望を細かくお伺いし、元気だった頃のお写真を参考にしながら、できる限りそのお姿に近づけていきます。最後にご家族と一緒に仕上げていく時間を設けることで、最後の思い出作りができるよう工夫をしています。 「おかえり」と迎える時間の大切さ ご遺族は、表情が戻った故人を見て、「おかえりなさい」「お家に帰ってきたよ」と声をかけられます。故人が病院で亡くなり家に帰ってきた時には、「死体」になってしまったという感覚が拭えないのか、遠巻きに見ているご遺族も中にはいらっしゃるのですが、エンバーミング後は、その感覚はなくなるそうです。大切な人との思い出がよみがえり、周囲の人に「ぜひ顔を見ていって」「あの人に会っていって」と声をかけられる方が本当に多いです。 エンバーミングを施しただけでも、ご遺体の状態が安定し、ご遺族の不安は解消されることでしょう。それだけでなく、ご遺体の前で、ご遺族が感じていることを話す機会を作ることで、最後のお別れまでの時間が、ゆっくりと「大切な人の死」を受け入れる時間になっていくのだと思います。  執筆:橋爪 謙一郎株式会社ジーエスアイ 代表取締役一般社団法人グリーフサポート研究所 代表理事米国で葬祭科学とエンバーミング、グリーフサポートを学び、帰国後(有)ジーエスアイと(一社)研究所を設立。現在は東大大学院で脳科学的視点からグリーフの研究を行う。編集:株式会社照林社

× 会員登録する(無料) ログインはこちら