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『自分なりのこだわりを貫きたい』という思いに寄り添い、支えた38日間

数々のお看取りに寄り添ってきた望月さんが出会った印象的な方々。後編は、末期がんで在宅に戻り状態が厳しくなっても、自分なりの在り方・こだわりを貫こうとしたBさんの支援について語っていただきました。 自分のことは自分で 【患者Bさん】60歳男性。膵尾部がん末期、肝臓・骨への転移あり。化学療法を受けていた大学病院のソーシャルワーカーの勧めで、訪問看護を利用開始。2020年9月3日から10月10日まで担当。 初回訪問の時、すでにBさんは瘦せて腹水がたまり、厳しい様相でした。病院から勧められての訪問看護開始だったこともあり、Bさんは「別に必要ないから」という口ぶりでした。 すでに食べられない状態だったBさんは、「食べないと体力がつかないから」と、化学療法のために造設されていたポートからの高カロリー輸液を希望されました。訪問看護では、輸液の管理などを行うことになりました。 Bさんは、「とにかく自分のことは自分で」という人でした。訪問医が腹水を抜いたら5リットルも出るような状態だったのに、「お風呂も自分で入るから清潔ケアは必要ない」と言うのです。 一般的に、在宅療養する男性は、奥様に頼り切りになりがちです。ですが、Bさんは奥様にも手を出させないようで、初回訪問の時、奥様はひと言も発しませんでした。 高カロリー輸液も、自分で動けるよう点滴ポールではなく、携帯用バッグを使うことを希望されました。それも、看護師が用意した後に自分で確認して入れ直すなど、几帳面な人でした。 『這ってでもトイレに行く』という強い意志 高カロリー輸液を入れれば、どうしても腹水は増えるので、Bさんは苦しかったと思います。それに、間もなく消化管が閉塞して、イレウス症状が出てきたことも厳しい状況でした。消化液がたまると吐き気を催しますが、Bさんはとにかく寝床では吐きたくなかったのでしょう、輸液のバッグを持って、トイレに駆け込み、吐いていました。 どう見ても、Bさんにはサポートが必要な状態でした。しかしBさんは、サポートは受けたくない、ポータブルトイレを置くのも嫌、自分で這ってでもトイレに行こうとする人でした。訪問看護は1日おき、ないし連日訪問していましたが、最後まで訪問介護は利用しませんでした。 状態の厳しさを、Bさん自身もわかっていたと思います。しかし、それは決して口にされません。どうしたいのかを私たちに訴えてくることもありませんでした。Bさんは、看護師に必要な情報を尋ね、それを受け止めるというスタイルの人でした。 入院と再度の在宅療養 嘔吐症状はその後もどうにもならず、Bさんの希望で2020年9月21日に一度入院しています。そのときも、Bさんは「病院に行けば、どこで吐こうがスタッフにケアしてもらえるから」という言い方をされていました。救急車で行くように伝えたのですが、結局、ご自分でタクシーを拾って乗り込み、途中でドアを開けて吐いて、病院まで行ったようです。 このとき私たちは、「もう在宅療養に戻るのは無理かもしれない」と覚悟をしていました。しかしBさんは、10月2日に退院してきたのです。在宅でも一度イレウス管を試していて、入院中も試したが不快で苦しい、病院にいたところで状況は変わらない、ということに納得されたからでした。 Bさんは、それまでいつも病状説明を一人で聞いていました。しかしこのときは、奥様も一緒に話を聞き、そして、家に帰ることを決めて戻ってきました。痛みが強くなり、麻薬性鎮痛薬を使いはじめ、退院後は1日2回訪問するようになりました。 イレウスがある人は、本当に気の毒なのですが、嘔吐症状がとても強いのです。 Bさんは、家に戻ってからは、トイレに行かず、好きなときに好きなように吐く、と決めたのだと思います。それまで布団を敷いていた部屋に、「入れたくない」と言っていたベッドを入れて、ケアシーツをいっぱい敷きました。そして、飲みたいものを飲み、吐きたいときに吐く。Bさんのその決断に合わせて、奥様も下着をたくさん用意していました。体を起こしての着替えも大変になってきたので、下着が汚れたら切って脱がせて捨てるようになりました。 何回か緊急訪問もあって、亡くなる2日前の訪問で、奥様がこんなことを話してくれました。 「最初は何も手を出せない状態で、本人の好きにさせるしかありませんでした。でも、退院を機に、坐薬を入れたり、本人が欲しいものを飲ませたり、体をさすったり、着替えさせたりできるようになって。まとまった睡眠がとれないですけど、自分の手を出せるようになり、介護できて、何だか楽しくなってきました。」 もともと関係が悪いご夫婦ではなかったのです。私たちは再度の在宅療養はないかもしれないと思っていましたが、奥様は「絶対帰る」と思っておられたそうです。退院して、本人の鎧がようやく取れたのかなと思いました。 最後は、奥様から、「起きたときには心臓が止まっていました」と連絡をいただきました。「次に起きたら亡くなっているかも、と思ったが寝ました」とおっしゃっていました。奥様も覚悟の決まった人でした。 「訪問看護ノー」と言われず、最期まで寄り添えるように Bさんに対して、訪問をはじめたころ、提案を色々していました。たとえば、「息も絶え絶えになりながらシャワーを浴びなくても、清潔ケアをお手伝いできますよ」などです。しかし、答えはいつも「ノー」でした。 けれど、訪問看護はそれでいいと思うのです。 病院から家に帰れば、みなさん、自分のやり方・自分の好みを大切にする。それが当たり前です。体に影響があることであれば、タイミングをみて、より安全な方法を伝えていくことも考えますが、それもケースバイケースです。 患者を受け入れる病院とは違い、支援するこちらがご家庭を訪問し、ケアを受け入れていただくのが訪問看護です。頭ごなしに指導する・正しいやりかたを押しつけるようでは、訪問看護自体を「ノー」と言われてしまう可能性もあります。 最期まで介護者をサポートしながら寄り添うために、ご本人・ご家族が主体の療養生活を支えていくのが、訪問看護の役割だと思っています。 ※掲載の内容については、ご本人とご家族の了承を得て掲載させていただいております。 ** 望月葉子白十字訪問看護ステーション看護師 記事編集:株式会社メディカ出版

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本人の強い意志をチーム力で支える

ベテラン訪問看護師の望月葉子さんが出会った、印象深い意思決定支援のケースを前後編で紹介します。前編は、重度の障害のある人に対する現在進行形の支援について語っていただきました。 東京のICU病室から博多でのコンサートへ 「意思決定支援」というテーマをいただいたとき、まず思い浮かべたのが10年のお付き合いになるAさんです。「こうしたい」という強い意思を持ち、周りを巻き込んでそれを実現していける人だからです。 【患者Aさん】 現在63歳、アテトーゼ型脳性麻痺の女性。車いす使用。望月さんが担当するようになったのは2010年、Aさんが53歳の時から。当時、直腸膀胱障害があり、すぐに尿道カテーテルを留置。その後、気管切開、胃瘻造設、乳がん手術などを経て、今も94歳の母親と二人で在宅生活を継続している。 Aさんへのこれまでの支援で最も大きなエピソードは、2014年10月、Aさんが交流のある演歌歌手のコンサートに招待され、病院のICUを自主退院して東京から博多に行ったことです。 そのころのAさんはすでに嚥下状態が悪くなり、この年の2月には誤嚥性肺炎で入院していました。博多に行きたいと言われたとき、私は最初、本気とは思っていませんでした。でもAさんは本気でした。それでケアチームの会議を招集し、本当に博多に行けるかを検討しました。 Aさんの強い思いに、相談支援専門員(障害分野のケアマネジャー)が寄り添ってくれたことで、ケアチーム全員が実現の方向に動けたように思います。お母様も博多行きにかかる費用はすべて出すと言いました。在宅医も、万一のことが起こる覚悟を本人とお母様に確認したうえで、診療情報提供書を用意してくれました。 そうしてコンサートの半年ほど前から、ヘルパーや自費の看護師、現地でケアを引き継いでくれる看護師、携帯用の酸素などを手配し、博多行きの準備をしていました。ところがコンサートの直前、Aさんは誤嚥性肺炎で呼吸不全になり、救急搬送されてしまったのです。しかも入院中に痰が詰まって、一時は心肺停止状態に。 常識だったら「これではコンサートは行けないね」となりますよね。でも、Aさんは「どうしても行きたい」と諦めなかったのです。退院は認めないという病院と交渉し、結局Aさんは、「急変したとしても再入院は求めません」という約束をして、自主退院することになりました。 私は病院から東京駅まで車に同乗し、Aさんを自費の看護師に引き継いで新幹線に乗車させました。そしてヘルパーが合流し、何とか博多まで行き、Aさんはコンサートを楽しむことができたのです。 選択の数々 博多から帰ってきてまたすぐに、Aさんは呼吸不全になって救急搬送されました。「呼吸筋力の低下で、自力での痰の喀出は困難、経口摂取はもう無理」という医師の診断でした。Aさんも納得の上、気管切開を受けました。 その後は、胃瘻にするかどうするかの選択を迫られました。在宅でケアにあたっているお母様もこれには悩みました。お母様は当時80代後半です。在宅医や私たち訪問看護師にたびたび電話をしてきていました。 Aさん自身はとにかく生きる意欲が旺盛なので、胃瘻云々ではなく、「とにかく家に帰りたい」と訴えていました。 Aさんは気管切開で声を失っていますから、介護者が読み上げる50音に舌で合図を出して意思を伝える方法をとっています。いつもの介護者とお母様は、このコミュニケーションに慣れていますが、病院ではそうはいきません。体を動かせないAさんには、ナースコールを押すこともできません。 しかし家に帰れば、意思疎通ができるヘルパーさんが24時間いてくれるのです。結局、Aさんは胃瘻を造設して自宅に戻りました。 この後、Aさん自身もお母様も、がんの手術を受けています。でも、それらの出来事もケアチームで支え、乗り越えて、現在に至ります。胃瘻から栄養注入しながら、チョコレートや、お母様手作りのゼリーを口から召し上がっています。 いいゴールはケアチームみんなで考えたい Aさんとこれほど長いお付き合いになるとは思っていませんでした。長い期間その人の人生に寄り添っていけることは、訪問看護の醍醐味です。とても幸せなことですね。今、Aさんの自宅へは週2回の訪問で、入浴介助、摘便、服薬管理、尿道カテーテル交換などをしています。 Aさんの博多行きを経験したことなどもあって、10年の間にケアチームとしての成長を感じています。チームメンバーは入れ替わりもありますが、定期的に行政メンバーも交えてケアチーム会議をしていることもあり、Aさんの意思はみなよく分かっています。 これから起こりうる大きなエピソードとして考えられるのは、おそらくお母様に何かあったときでしょう。そのときどう対応するかについて、ケアチームで話題に上っています。しかし、施設を探すといった話はまったく出ていません。Aさんは「このまま在宅で生活する」と言うだろうと、みな思っているからです。 Aさんは、状態の悪化を嘆いて悲観的になることはありません。もちろん、感情の波はありますが、怒るエネルギーは衰えません。いろいろな難題を突き付けてくる人ですが、意思がはっきりしている分、支援の方向性は決めやすいのです。どこが本当に良いゴールなのか、今はまだわかりませんが、それはチームみなで考えていけると思っています。 ※掲載の内容については、ご本人とご家族の了承を得て掲載させていただいております。 ** 望月葉子白十字訪問看護ステーション看護師 記事編集:株式会社メディカ出版

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コロナ禍に行ったアンケート調査にみる 不安を克服し前に進もうとする姿に誇り

公益財団法人日本訪問看護財団常任理事の佐藤美穂子さんインタビュー、後編は日本訪問看護財団が昨年から今年にかけて4回にわたり行ったアンケート調査から見えてきたものを中心に語っていただきました。コロナに翻弄される訪問看護師の不安と、その先にある光明とは。 コロナで明らかになった 日本人のヘルスリテラシー コロナ禍の中で1年半経って私が感じたのは、日本は諸外国に比べ、ヘルスリテラシーがしっかりしていると思っていましたが、実はそうでもなかったということです。「マスク着用」「手指消毒」といえば、みんな従うところは徹底しているなあと感心します。しかし、緊急事態宣言も度重なり、その効果はしだいに薄れてしまっています。 またコロナ禍で医療従事者にスポットが当てられ、報道番組などで多くのドキュメンタリーも作られましたが、メディアは「医療崩壊」などセンセーショナルな話題を取り上げる傾向にあります。現実には、感染病棟の看護師は、着脱に時間がかかる個人防護具のフル装備で、トイレを長時間我慢し、食事もままならないという現状がありました。医師は定期的に見回りに来ますが、人工呼吸器も経管栄養も、実際にベッドサイドでマネジメントしているのは看護師です。これらの行為は看護師の特定行為研修制度にもつながるのですが、そういう看護師の総合的な力量 —— 対応力、技術力、指揮力をこそ、メディアにもっと取り上げてほしかったですね。 看護師のメンタルヘルスを良好に保つためには 昨年から今年にかけて財団が4回実施しているアンケート調査からみえてきたのは、コロナ禍で働く訪問看護師のメンタルヘルスの不安定さが、完全に解消できていないことです。看護師は医療者として最前線に立ち、猛烈な感染力がある未知のウイルスに対峙しなければなりません。訪問先や、移動中に、万が一にも感染したらどうしようという恐怖心はどれだけのものだったでしょう。また、個人防護具が足りなくなることへの不安、本人たちの気分の落ち込み、疲労感、イライラ、孤立感を募らせた看護師が多かったことが、アンケートからうかがえました。利用者の命も、自分の家族の安全も守らなくてはならない緊張感に押しつぶされ、休職・退職していった看護師もいました。家族から「そういう(リスクの多い)仕事は休んだら」と言われ、身近な人から仕事に対する理解を得られなかったことで落ち込んだという人もいました。 一方で、不安でメンタルが低下したスタッフに対して、「このままではいけない」と別のスタッフが奮起してカバーしあっていることもアンケートからみえてきました。たとえば、ふだん控えめなスタッフが「とにかく感染に気を付けてこの危機を乗り越えよう」と発言したり、ウイルスについてもっと医学的・科学的・客観的に学ぼうという姿勢がみえたりしていました。なるべく接触時間を短くする分、ICTを活用して利用者の体調管理や健康相談を行っているステーションもありました。管理者はそういう姿を頼もしく感じ、スタッフに、いっそう感謝の気持ちを持ったといいます。 パンデミック下での訪問看護 管理者が行うべきこと 管理者ならではの悩みもあります。万が一スタッフが濃厚接触者や感染者になってしまうと事業所が回らなくなるので、とにかくみんなが安心して働けるよう、「スタッフの命は必ず守るし、健康な暮らしを第一に考えて行動しますから、皆さん安心して」など、管理者からのメッセージを丁寧に伝えて安心してもらっている様子もうかがえました。もちろんその裏付けとして、感染に対する正確な知識をみんなで共有する、個人防護具を全員が十分に使えるように整備するなどを、怠りなくやらなくてはなりません。 感染者に対する差別などが起こっている場合、スタッフの精神的な負担を管理者がフォローすることも大切なことです。濃厚接触者になって10~14日間仕事ができなくなったスタッフが職場復帰したときには温かく迎える。そして当事者の体験をしっかり共有して、根拠に基づく感染防護をさらに徹底する。そんなフォローも管理者には必要です。 訪問看護サミット2021で多くの仲間と会える日まで 感染症は、いつかは必ず治まります。来年あたりは、ポストコロナという新たな状況を描かないといけないでしょう。そして10年後くらいに、また新たなウイルスが出てくるかもしれません。今回、このような世界的なパンデミックをみんなが経験したのですから、これを契機に私たち訪問看護師には地域でどんな役割があって、どういうことをすればいいのか、地域とのつながりを強めるためにも、しっかり業務継続計画(BCP)を作成していただければと思います。 なお、これからも人材確保がままならない状況は増えてきます。みんなで集まることができない今、ICTを活用するなどして、屋根の下の連携ではなく大空の下での地域との連携をより強めていく必要があります。管理者層は、苦手意識を克服するためにも、ICTに強いスタッフの経験を共有し、若いジェネレーションとうまくやっていってほしいですね。 また、日本訪問看護財団の個人防護具無料提供は現在も続けています(2021年9月28日時点)。感染者対応に限定しているわけでもなく、フル装備でなくてもいいですし、ヘルパーさんにも使っていただけます。財団ウェブサイトより申し込みいただけますので、ご利用ください。◎日本訪問看護財団『感染防護具支援プロジェクト』https://www.jvnf.or.jp/covid-19_project2020.html また、11月6日には訪問看護サミット2021を開催します。テーマは「どんな時も共にある訪問看護をめざして、ポストコロナの最善のシナリオを描こう」です。ライブ配信を行いますので、ぜひご参加ください。 ◎訪問看護サミット2021の詳細はこちら↓https://www.jvnf.or.jp/summit2021/index.html ** 佐藤美穂子公益財団法人日本訪問看護財団常務理事 記事編集:メディカ出版

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意思決定支援とは誰のため? 何のため? 「ややのいえ」の取り組みから考える

さまざまな人々が集い、出会い、語らう場として、看護から看取りまで「地域まるごとケア」を行う「ややのいえ」を運営する榊原千秋さん。今回は、「ややのいえ」の大切な理念とその実践、そこで出会ったある男性の最期について語っていただきました。 地域をまるごとケアする 「ややのいえ」の四つの理念 「ややのいえ」には、高齢者を中心とした出会いの場「ことぶきカフェ」、医療や介護相談「暮らしの保健室」、排泄の総合相談「おまかせうんチッチ」、産院+親子サポートを行う「ちひろ助産院」、訪問看護ステーションなど、さまざまな機能があります。住民は、「ややのいえ」とつながることで、新たな出会いやつながりが生まれます。ここは0歳から100歳を超える方々の「地域まるごとケア」の拠点であり、自分なりのありかた、生きかたを見つけていく「居場所」となっているのです。 「ややのいえ」には四つの理念があります。それは、前回お話しした義母のことも含め、私が三十余年、地域で出会った人たちから教えてもらったことがベースになっています。 一つめは、「とことん当事者」ということ。訪問看護でも、「今、いちばんしたいことは何?」と、家族ではなく本人の願いを聞きます。「星空が見たい」「猫と遊びたい」「お化粧をしたい」「『おしん』を最初から最後まで見たい」など、いろいろな望みが出てきます。願いを聞いたら、なぜそれを望むのかもたずねます。言葉にした「願い」だけではなく、「なぜそれを望むのか」が大事な場合もあるからです。それに、「なぜ」を聞くと、私たちもそれを実現したくなりますからね。 本当の願いがわかったら、ときにはチームを作り、それを実現します。そのプロセスが、「ややのいえ」のACP(アドバンス・ケア・プランニング)であり、意思決定支援の取り組みなのです。 大切にしていることの二つめは、専門職として出会う前に「人として出会う」こと。専門職として病気のこともきちんと診るけれど、最初にその人がいちばん大事にしているものを見る。気付く。そこから人と人としての関係を作っていくのです。 三つめに、「自分ごととして考える」。相手を人として知り、願いを知り、その願いへの思いを知る。そしてその願いをひとごとではなく、自分ごととして考えるのです。 一人の人を支えるには、医療職や介護職、制度だけでなく、いろいろな仲間の力が必要です。「ややのいえ」には文房具屋さんや不動産屋さんなど、地域のさまざまな仲間がいます。本人の願いをかなえるために必要なら、そうした仲間たちとチームを作ります。こうした、専門職だけでない支援、本人を取り巻く多くの人たちが一体となる「十位一体のネットワーク」の力が「ややのいえ」の理念の四つめであり、意思決定支援につながるものです。 ナラティブに出会い エビデンス的に人を看る 「ややのいえ」の訪問看護では、初回訪問から「ナラティブ」でその人と出会います。壁に表彰状がかかっていたら、「すごい、○○で賞を取ったんですか?」と聞いてみる。その人が大事にしていることを知ろうという目線で接していくのです。そうした目線は、「ややのいえ」として、「聞き書き」にずっと取り組んできた文化が影響していると思います。「エビデンス」的に人を看ながら、同時に、「ナラティブ」でも人を見る。そんな姿勢がスタッフに身についています。だから、専門職として出会う前に人として出会うことができるのです。 「聞き書き」は何も、構えて相手の話を聞き、書き留めるだけではありません。「あんたらの魂胆に乗せられてやるか」とか、「あーあ、俺はもうすぐ死ぬのか」とか、訪問したときに、ふと漏らした、その人らしいちょっとした独特な言葉があったとき、それをカルテに書き留めます。そんな「ひと言聞き書き」が、意思決定支援につながるACPの一部なのです。 それは、きちんと相手と向き合っているから、拾い上げることができる言葉です。「今日の血圧は」「足がむくんでいますね」と、体だけを看るかかわりだけでは、聞き逃してしまうかもしれません。 満足と幸せが残る意思決定支援とは 末期がんで在宅療養していたAさんは、あれこれ気遣われるのが煩わしく、心配する奥さんをも怒鳴りつける人でした。本人はまだ3~4年は生きられると思っていたのですが、いよいよ状態が厳しくなってきたとき、訪問看護師に「わしはどうなっていくのか」と聞いてきました。 そのとき訪問看護師は、「もともと生まれてきたところに帰って行くのですよ」と答えました。するとAさんはにこっと笑って、「母ちゃんを呼んでくれ。そして二人にしてくれ」と言いました。看護師が退出後、Aさんは奥さんの手を握り、二人でしかできない話をしたのだそうです。Aさんは、その日の深夜3時に亡くなりました。 Aさんが亡くなったあと、私たちはお通夜とお葬式に同席させていただき、ご親族と空気感を共有しました。グリーフケアですね。その後、四十九日までに弔問に訪れると、「あの時逝くとは思っていなかった。あの時間があってよかったよ」と奥さんはとてもいいお顔をされていました。 亡くなることを「旅立つ」という言葉で表現することがありますが、浄土真宗のさかんな北陸では「お浄土に帰る」と言います。看護師の「もともと生まれてきたところに帰って行くのですよ」という言葉は、Aさんの心に自然に受け止められたのだと思います。 意思決定支援はひとつの地域文化でもあると思います。同じ地域で暮らしているからこそ共有できるのだと。そして意思決定支援は、本人が亡くなられたあとのグリーフ期に真実が語られることがよくあります。はじめて出会ってからグリーフケアまで、本人にもご家族にも、ほがらかで穏やかな時間が持てますようにと願っています。   ** 榊原千秋コミュニティスペースややのいえ&とんとんひろば代表訪問看護ステーションややのいえ統括所長 記事編集:株式会社メディカ出版

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医療や介護を直撃した新型コロナウイルスが 訪問看護ステーションにもたらしたもの

トップランナーから現場へのエール 日本訪問看護財団は、現場の声を国や関係機関にあげ、職場環境改善や研修事業を行う訪問看護ステーションの職能団体の一つです。常務理事を務める佐藤美穂子さんに、新型コロナウイルス蔓延で訪問看護ステーションが受けた打撃について語っていただきました。 電話相談から見えてきた 感染対策、防護具不足、経営危機…… 新型コロナウイルスのパンデミック発生から1年以上が経過しました。この未知のウイルスは、訪問看護ステーションの運営をも直撃しました。私たち日本訪問看護財団は、情報発信と相談支援、国や関係省庁に要望を届けるための実態把握を、常日頃から行っています。コロナ禍においては、特に感染予防などに特化した形で数多く発信してきました。 情報発信としては、財団ウェブサイトに、感染症に関する特設ページを設けました。第一報は2020年3月6日で、平時の感染管理、利用者やスタッフの感染・感染疑い時の対応などを、細かく伝えました。この時の発信は、業務継続計画(BCP)としての側面に近い内容でした。 そのころすでに、外部者だからとの理由で、看護師の訪問が断られる事例が約15%発生していました。そこで、「訪問看護を利用する皆様へ」という利用者へのチラシのひな型を作成し、必要に応じて使っていただくようにしました。チラシには「訪問看護ステーションは感染管理を徹底しているので、部外者であっても安心です」といった内容をつづっています。 ウェブサイト上で無料電話相談の告知も行ったところ、新型コロナに関して300件を超える相談がありました。第1波が来たころは、感染対策をどうするかという相談が多かったのですが、すぐにマスクやフェイスシールドが手に入らないという相談が増えました。第3波が到来した2020年末~21年1月ごろは、変異株についての問い合わせが増えました。 管理者のこうした相談に丁寧に対応する一方で、新型コロナに関する緊急ウェブアンケート調査も4回実施しました。その内容は整理し、国へ提出しています。コロナ禍での混乱や管理者の不安が少しでも軽減されるよう、私たちも常に情報を発信しつづけ、かかり増し経費に対する交付金や、職員への慰労金についてもお知らせしました。 感染防護具や優先接種を国へ直接要望 財団が行った活動のなかで特に重要だったのは、先のアンケートの件もそうですが、厚労省や政府へ直接要望を伝えたことです。個人防護具の確保についても然りです。これは大変と思ったのが、訪問看護師はワクチンの医療従事者優先接種から外れていたことでした。最前線で活動している医療従事者であるにもかかわらずです。2021年1月15日にその事実を知り、すぐに、日本看護協会と全国訪問看護事業協会との連携で、田村厚生労働大臣に直接訴えました。そして、その月末には優先接種リストに訪問看護師を入れていただきました。 感染を防ぐために必須の個人防護具を訪問看護ステーションに届けることも、財団の急務でした。幸いにも、日本財団とネットライフ生命株式会社から7000万円の寄付をいただき、まずは4000箱(訪問看護ステーションや訪問介護事業所などが1週間使える程度の個人防護具のセット)を確保し、全国に無償で配送できるようにしました。これは現在でも続けているプロジェクトで、ぜひご利用いただきたいと思っています。 一時的な経営危機も 秋以降は利用者増へ コロナ禍では訪問看護ステーションも利用控えなどがあり、2020年4~6月は前年度に比べて1割程度収益が減少しているステーションが6割近くありました。ところが9月の段階では経営危機を乗り越えプラスに転じるステーションも多くなりました。 これには二つの理由があると思います。訪問看護ステーションは医療従事者が対応しているので、安心して利用できることを広く利用者に理解していただけたことが一つ。もう一つは、病院に入院していると面会制限で家族とも自由に会えないため、それなら家に帰って療養したいという人が増えたことです。 利用者が増えれば経営的には安定しますが、感染防護具の支出が増えて大変だという訴えもありました。医療保険では特別管理加算で算定できますが、介護保険では算定できません。そのため、2020年の第二次補正予算で、新型コロナウイルス感染症対策費としてかかり増し経費補助金が計上されました。介護保険事業者は、感染対策や人材確保によけいにかかった費用に対して、助成を受けることができるようになりました。2021年度は「サービス提供体制確保事業補助金」で、同様の助成金が受けられます。 このように財団は、訪問看護ステーションの生の声を国に届け、改善を訴えてきました。しかし新型コロナウイルス感染拡大は、平時の事業運営を根本から揺るがすものでした。それは、財団が4回にわたって行ったアンケート調査から明らかになりました。(後編へ続く) ** 佐藤美穂子公益財団法人日本訪問看護財団常務理事 記事編集:株式会社メディカ出版

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介護者、看護師、そして三男の嫁として 亡き義母の「意思」に触れた日々

保健師として地域で活動後、難病患者の在宅療養者の支援を経験した榊原千秋さんは、地域でさまざまな人々が集い、出会い、語らう場として「ややのいえ」(石川県小松市)を開設。訪問看護ステーション、助産院なども併設しています。今回は、夫の母を介護した経験から、身内の「意思決定支援」で強く考えさせられた事例について語っていただきました。 認知症があっても自分で居場所を決めた義母 「意思決定支援」という言い方、実は私、好きじゃないんです。ひと言で言えるような単純なものではないですし、一方向から見た真実にしかならないと思うからです。また、本人が本当の意思を表明するとは限りません。 93歳の時に、転倒による腰椎圧迫骨折で入院して寝たきりになった義母も、私たち親族には本音を言いませんでした。でも、知人を連れてお見舞いに行ったとき、会話の中でポロリと「家に帰りたい」と言ったのです。これが義母のACP(アドバンス・ケア・プランニング)に取り組んでいく、大きなきっかけとなりました。 同居していた長男夫婦は、「家では看られない」と私に施設入所の相談がありました。長男夫婦に初孫が産まれたこともあり、ひとまず介護老人保健施設(老健)に移りました。その直後に長男の妻が交通事故で入院し、面会に行けなくなりました。そこで義母は、「自分は捨てられた」と思い、ストレスからガリガリに痩せてしまったのです。 地方都市では、今も、親の介護は長男の嫁がするもの、という考えかたが根強くあります。本来なら、三男の嫁である私は、義母の介護に対して発言権もありません。しかし老健に義母を見舞いに行った際、夫が「このままにしておいていいのか」と私に言ったのです。 そこで、「ややのいえ」について親戚中を説明してまわり、私が「ややのいえ」に義母を引き取り、ケアすることが了解されました。 「今したいことは何?」と聞くのが、私の考えるACPの始まりです。 「ややのいえ」をお試しで訪れた義母の答えは、「鳴門金時(さつまいもの品種)を植えたい」でした。畑にうねを作ると、痩せ細った姿で、植えかたを指導してくれました。 そうして何回か「ややのいえ」で過ごしてもらううち、義母は自分から「ここに置いてくれやの」と言いました。認知症があっても、義母はちゃんと自分で自分の身の置き所を決めたのです。 すごいな、と思いました。これで、私も「ややのいえ」でともに暮らしながら義母をみていく覚悟が決まりました。 「迷惑をかけるから」の言葉の裏にあった思い 「ややのいえ」で暮らすようになった義母に、「どうしたい?」と聞くと、返ってくる答えは決まって、「最期の日までほがらかに楽しくおらせてくれやの」でした。老健にいたころには出なかった言葉です。 義母の望みどおり、畑仕事をし、梅干を漬け、洗濯物をたたみ、繕い物をする。隣のかき氷屋のかき氷をペロリと一人前食べたり、晩御飯を食べたのを忘れて私と半分こしてどら焼きを食べたり、義母は「ややのいえ」で自由にのびのびと過ごしていました。 義母とは1年半、「ややのいえ」で暮らしました。それが中断したのは、私が腎臓結石の手術のために入院することになったからです。やむなく、義母にはショートステイへ。しかし、その2泊目、義母は急性出血性大腸炎で緊急入院しました。 3か月たっても義母は回復せず、“いわゆるACP”として、胃瘻にするか、高カロリー輸液のポートをつくるかを聞かれました。 ショートステイ入所前日まで、お寿司をペロリと食べていた義母です。VF(嚥下造影検査)をしてもらうと、回復の見込みはあると言われました。 それなら、一時的に胃瘻を造設して栄養を確保し、嚥下のリハビリをお願いしようと考えました。 退院の時期が来たとき、胃瘻になり、痩せこけた義母に聞きました。「『ややのいえ』に戻らない? 帰ろうよ」と。すると義母は、「千秋さんに迷惑をかけるから行けない」と言うのです。 「迷惑をかける」とは、三男の嫁である私が再び義母をみることになったら、兄弟間で“もめる”、という意味で言っているのだと、私にはわかりました。認知症があっても、義母はちゃんと状況を理解していたし、家族のことを考えていたのです。 結局、義母は療養型病院に転院し、そこで亡くなりました。 「意思決定」のとらえかたは 立場によってさまざま 義母のお通夜の席で、米寿祝いの時作った義母のライフヒストリーを聞き書きでつづった冊子とアルバムとともに思い出が語られました。皆、それを見ながら話しているのに、義母が「ややのいえ」で過ごした日々のことは、まったく話題に上りませんでした。長男夫婦は私が義母の介護をすることをよしとせず、施設への入所を望んでいたこともあったからだと思われます。 一方、義母方の親族が言った「母は幸せやったよ」の一言には救われました。それぞれの立場や考えによって、本人の「意思決定」を取り巻く事実のとらえかたはまるで違うのです。 専門職として数多くの看取りにかかわってきた私ですら、「ややのいえ」での義母との1年を親族に語れない状況や、その時の感情は、今も大きなトラウマとなっています。 このように「意思決定支援」にかかわる当事者は多岐にわたり、その登場人物ごとに真実があります。支援者は、まずそのことを十分に認識しておく必要があると思います。 ** 榊原千秋 コミュニティスペースややのいえ&とんとんひろば代表 訪問看護ステーションややのいえ統括所長 編集協力:株式会社メディカ出版

インタビュー

仕事だけが生きがいの人生にならないために

トップランナーから現場へのエール 長年、訪問看護の世界をリードしてきた宮崎和加子さんは、60歳を機に、山梨県に一般社団法人だんだん会を設立しました。その背景にはある気づきがありました。多くの看護師に慕われた宮崎さんから、ベテラン看護師に贈る言葉とは。 頑張りの限界を自覚することも大切 訪問看護の分野はベテランが担うケースが多く、管理者が50歳以上、看護師の平均年齢は40歳を超えている事業所もあります。小規模なステーションでは、ICT化に積極的に取り組んでこなかったことから、いまだにタブレット端末が使えず、手書きで記録をしているところもあると聞いています。現在、それが解消されているかというと、そうでもないようで、やはり訪問看護の分野はどうしてもICTの導入は遅れていると私は見ています。でも、その人たちには、重度の人をチームで支えるために必須の、ナースとしての力量があります。何より、現在の訪問看護の手本になっている人たちです。でも私はあえてその方々に言いたいことがあります。それは、「自分ができないことをできると思い込んでいないか」ということです。 私自身、訪問看護は自分の生きがいだと思ってやってきましたが、客観的に見たら、65歳の高齢者です。以前は平気だったのに、夜10時まで仕事をしていて、やっと床に就こうとした深夜1時に電話が鳴ったり、夜遅くに雨が降っていたりすると、「訪問するのが嫌だな」と思う自分がいるわけです。それはもう、「今までできたことができなくなっている」ということなんです。 ベテランの訪問看護師の皆さんが、仕事に誇りを持っておられることは素晴らしいし、ぜひ続けていっていただきたい。けれども、どこかで「これまでできていたことができなくなっている自分」がいないか、無理していないかを、一度立ち止まって確認してください。自覚がないまま続けると、そのうち利用者やスタッフに迷惑をかけてしまうことになりかねません。もちろん若いスタッフは、迷惑だなあと思っても、管理者やベテラン看護師に面と向かって伝えたりはできないことが多いです。自分で気づくしかないのです。 私の友人の訪問看護師は、「私がこれだけ働いていると、周りのみんなが少しは休みなさいとか、ちゃんと食事もしないと倒れる、もう少し休んだほうがいいって言うんだけど、よけいなお世話よね」と言うのです。そして、自分の望みは死ぬまで仕事をしていたいと。それはそれで素晴らしい生きかただと思います。でも、ちょっと立ち止まって「それでいいのかな」と考えてみることが必要かもしれません。 入居者から学ぶ自らの引き際 だんだん会が運営するシェアハウス「わがままハウス山吹」に最近入所された人がいます。奥様を10年前に亡くされてから、96歳まで東京で独り暮らしをしていました。しかし、失禁なども始まって一人で生活することが難しくなったため、娘さんが住むこの地に引っ越して、入居されました。明らかに独り暮らしは限界で、手助けがないと暮らせない状態でした。ですが、ご本人はいまだに「僕はまだ独り暮らしができる。東京に帰ります」と、住み慣れた自宅を離れたことに納得していない。以前はできたことが、もうできなくなっている自覚がないんですね。 私がその人から学んだのは、私自身が「まだできる」と思っていないかということです。以前なら平気で徹夜で原稿を書いたり、夜中の急変にも対応したりできていた。それが自分の使命だと思ってやってきたけれど、客観的に見たら、もう無理ができない年齢です。責任の重い仕事をするなら、なおさら、今までできたことができなくなっている自覚を持ち、「できない」と引く勇気も必要なんです。 訪問看護黎明期にステーションを立ち上げたベテランの方々は、最後まで現役でいたいと思っている人たちがたくさんいらっしゃいます。仕事に生きがいを感じ、大きな使命感を持って働いていらっしゃるから、なおさらです。でも、どこかでできなくなっている自分がいないかを確認しないと、周囲に迷惑をかけてしまうことに、気づいてほしい。私自身がそう感じています。 現在、働きかた改革が進み、訪問看護の世界でも、世代間の考えかたに距離を感じることがあります。今の20~30代が看護学校で学んだ看護教育や環境と、私たちの世代が受けた教育とは、かなりの開きがあるように思います。そこを理解せず、これまでのやりかたで統一しようとしても、若い人たちは納得できないでしょう。これからの管理者は、世代間の考えかたの違いを自覚したうえで、どう組織をまとめあげるかを考えていく必要があると思います。 最近は、医療ニーズが高くても、在宅で暮らす割合が高まってきました。先日も、食道がん末期で入院中の人が「コロナ禍で家族と面会もできないなら、最期の時間を病院ではなく家で過ごしたい」と退院され、だんだん会の訪問介護事業所がかかわらせていただくことになりました。新型コロナの関係で病床が逼迫しているので、病棟並みの管理が必要な重度の人が家に戻るケースもあるようです。そのような人たちを支えるには、看護師の力だけでなく、相当のチーム力が必要です。年齢の壁、考えの違いを十分理解し、若い人たちの声にも耳を傾け、自らをも振り返ることで、よりよいチームとなっていくと考えています。 ** 宮崎和加子一般社団法人だんだん会理事長 記事編集:株式会社メディカ出版

インタビュー

病院以外の看護を形にした先達者だからこそ、今言えること

トップランナーから現場へのエール 訪問看護のパイオニアの一人として活躍した宮崎和加子さん。 今回は、訪問看護の夜明けから現在までのご自身の活動をお話ししていただきました。 病院以外の看護を事業として形にしたころ 私が看護師になった1970年代は、看護学校を卒業して病院に入職し、実践を積みながら看護の面白さに気がつくことが多かったと思います。でも私は学生のころから、休みを使って全国のさまざまな地域での看護の実態を見て歩くうち、病院以外の看護の形があることを知りました。当時、日本の高齢者はまだ10%足らずでしたが、日本のこれからの医療や福祉をどうするかという議論が活発になされるなか、私は在宅訪問看護という新しい分野の仕事をつくり上げていきたいと思っていました。 そういうことが実践できる場と仲間がいると知り、学校卒業後は東京都足立区にある医療法人財団健和会の柳原病院に入職しました。当時は訪問看護という制度はなく、医療機関や自治体での試みが少しなされているだけでしたが、柳原病院には、現実を見すえて、地域医療を実践している医師や看護師が多数いました。 そのうち、医療保険で訪問看護が1回1,000円で認められるようになり、やっと訪問看護ステーションの原型ができはじめました。そして1992年、柳原病院の看護師3人で、北千住訪問看護ステーションを開設しました。このステーションは東京都指定第一号となり、数年後には、私は13か所の訪問看護ステーションを束ねる統括所長に就任しました。こうした動きは全国でも広がりをみせ、訪問看護ステーションが全国に誕生していった時期でした。 複数の訪問看護ステーションを束ねるうち、「訪問看護ステーションは必要とされている。やりたいと考えている看護師も多い」と確信を持ちました。それにもかかわらず、全国のステーションの開設数はなかなか増えていきませんでした。なぜかというと、実際には報酬が低くて経営していくことが困難だったからです。そこで私は、現場の仲間たちと全国の訪問看護事業所を調査し、訪問看護が事業として成り立っていくよう、国に意見を出しながら仕事を続けました。 介護保険の誕生が可能にした多様な在宅看護の形 2000年の介護保険法施行と同時に、訪問看護事業は、株式会社など営利企業でも設立できるようになりました。看護師が独立して、自分で株式会社やNPO法人を立ち上げてやっていける時代になったことは、訪問看護の普及に大きく貢献しました。 気がつけば、私の周囲の看護師たちも独立し、自分でステーションを立ち上げる人が増えていました。それも訪問看護だけでなく、ホームホスピスのようなものを含め多様なサービスを提供できる形を整えて、地域で看護を提供しています。2011年には在宅ケアのさまざまなサービスと訪問看護を一体化した「複合型サービス」が誕生し、14年には「看護小規模多機能型居宅介護」と名称を変え、訪問だけではない在宅看護が、制度に位置づけられました。 私は、全国の訪問看護ステーションを訪ね歩いて現場の看護師の声を聞き、それを本にしたり講演活動のなかで紹介したりしてきました。2010年、全国訪問看護事業協会で訪問看護ステーションの普及・整備にかかわるようになり、なかなか増えなかった訪問看護ステーションの開設数を増やすべく、介護保険法改定時の報酬をプラスにするような活動も続けてきました。 本当にやりたいことは何? 還暦からのスタート そうしたなか、私自身は次第に、再び直接患者さんに寄り添って、一緒に喜んだり悲しんだりしたいと思うようになりました。そして60歳の定年を契機に、八ヶ岳南麓の山梨県北杜市に移り住み、一般社団法人だんだん会を設立しました。還暦からの出発です。 ずっと東京で活動してきたのに「なぜ山梨に?」と多くの人から聞かれました。理由は明快です。自然環境が抜群で、山々に囲まれ、水が豊かで夏でも扇風機が要らない。素晴らしいところに住み、年を重ねたいと思ったからです。しかしそこに住みつづけるためには、地域のサービスの種類と量が不足していました。そこで、訪問看護だけでなく、不足しているサービスを立ち上げ、運営することにしました。 それは、私が長年訪問看護事業の普及に奔走していたころから感じていた「訪問看護だけでは地域はよくならない。看護職がもっと力を発揮できる場はほかにもある」という信念から生まれたものでもあります。 だんだん会は、地域で暮らす看護を必要としている人に直接的なケアを提供するだけでなく、認知症になっても穏やかに暮らせるグループホームや、要介護度・入居期間を問わないシェアハウスなどを運営しています。地域の皆さんにも積極的にかかわっていただき、収益事業ではない認知症カフェなど、誰もがともにいられる居場所づくりにも力を入れています。 だんだん会の一連の事業は、ステーションを運営している管理者が、将来自分たちもこのような「地域の居場所」を作りたいと思えるようなモデルになればという側面もあります。介護保険法施行後、自らステーションを設立して頑張ってきた人の多くは、中高年の方が多いと思いますが、地域のニーズをしっかり見極め、事業を起こすタイミングを見逃さず、ぜひ訪問看護だけでない地域看護の素晴らしさを広めていただきたいと思います。 (後編へつづく) ** 宮崎和加子一般社団法人だんだん会理事長 記事編集:株式会社メディカ出版

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